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非武装信仰板
1709
:
神の子様
:2019/06/12(水) 17:20:53
2044: トキ :2014/03/30(日) 21:34:59 ID:a9pC7LR.
初心者様
聖地という問題は、考えた事がなかったので、こういう機会をいた
だき、感謝申し上げます。
私の知り合いに「無教会派」のキリスト教の人がいます。
ご存知の通り、この宗派は内村鑑三がはじめたもので、教会という
存在を否定します。つまり聖地という概念へも否定的です。
しかし、私が知る限り、この宗派は他の信仰へはかなり厳しい態度
を取っています。
つまり、聖地という概念が存在する事と、ある宗派が寛大か排他的か
という問題は、論理的な必然性が存在しないと考えるべきだと思います。
先日、紹介した「ガンディー」を書いた宗教学者の山折さんなど、自分
に確たる信仰があるから、他の人への信仰へも寛大になれる、という
考え方を言っています。これは私も賛成です。
なるほど、聖地という概念が必要なのは、人間様の都合かもしれませ
ん。しかし、それなら、生長の家という組織も、総裁という役職も、本
やテープも、一切合切が全て「人間様の都合」です。すると、総本山を
売却するぐらいなら、同時に、総裁や教団の役職者も「こんな役職は
人間の都合でできたものだから」と拝辞するのが筋かと思います。
そこまで行くと、教団の指導部も、ついていけなくなるでしょう。
今、地上に存在する宗教の大半が「聖地」を保持しています。その中
で、いくら生長の家が「聖地などという概念は必要がないのだ」とりき
んでも、それは、現在の教団指導部の価値観に過ぎないです。世界平和
とか宗教間の調和という事を真剣に考えるなら、「聖地」という概念を
否定してそれを宣伝するのではなく、異なる「聖地」を持つ人の間で、
どう調和を保つのか、という点が大事で、その意味で、私は、総本山と
いう「聖地」は鎮護国家と同時に、世界平和のためにも必要だと考えて
います。
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