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非武装信仰板
1679
:
神の子様
:2019/04/26(金) 03:32:27
109: シャンソン :2014/11/26(水) 16:29:45 ID:J/KQwGyI
谷口雅春(先生)
皆さん、ありがとうございます(拍手)愛の種々相という問題でありますが、愛という言葉は
非常に今は混乱されて使われているのであります。それで〝愛〟の問題をよく理解するためには、
まず、〝愛とは何ぞや〟ということをはっきり理解しておかなければならないと思うのであります。
「創世記」の中にアダムを神様がおこしらえになってから「人一人になるはよからず」と言われて、
アダムの助骨の骨をとってイヴをこしらえたということが書かれているのであります。ここに愛の問題が根本的に
顕れていると思うのであります。
神様がアダムに対して「人一人なるはよからず」と言われたのは、神様御自身のことを言っておられるんだと思うんです。
神様は唯一の神様ですけれども、それで、御自身が一人なるはよろしかずと、何かを愛する対象がなければならないということを神様が
御自身でお感じになったに違いない。御自分でお感じになったからアダムもそうそうなんだとお感じになったわけなんだと思うのであります。
それで神様は御自身の生命を分化して、そこに愛されるべき対象をお創造りになったわけなんであります。
その〝愛される者〟と〝愛する者〟とは本来一つであるということが、これが〝愛〟の最初の出発であるとこういうふうに考えます。
そうすると、愛する対象を愛するということは、それは愛される対象というものは、そこに神が顕れているということであって、神以外には
何も無いのでありますから、愛される対象は、そこに神がいらっしゃるということである。
だから〝愛する〟ということは根本的に言うと〝尊敬する〟ということでなければならない。
尊敬のない愛というものは、これは愛が崩れてしまっていると思うのは、その人の愛が崩れているのであって、根本的な〝愛〟の本質に背いており、
歪んだ形になっていると思うのです。〝可愛がる〟ということは、必ずしも本当の愛ではないということであります。
〝可愛がる〟ということは、必ずしも本当の愛ではないということであります。
〝可愛がる〟というのは時とすると、相手を自分の快楽の対象にするという意味があるのであります。
それで苟くも神の実現であるところの人間を、自分の快楽の道具として使うという意味において可愛がるというのでは、これは本当の愛ではないのであって、
愛が崩れた形に現れていると、そういうように思うわけなんであります。
『實相研鑽』第二集 P148-149 谷口雅春先生 監修
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