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非武装信仰板

1613シャンソン:2019/03/01(金) 11:03:37

 『白鳩会』が人命尊重運動をはじめてから、日本のお母さんたちが、胎内の子供を殺す数が、随分減って来たことは喜ばしいことである。お母さんたちが堕胎の罪を自覚するようになって、自発的に悪業を犯さなくなることを望むと同時に、無自覚の母親たちのために、法律の力でもって人命中絶を禁止して貰える日を心待ちにしている。

 私の許へいろいろな質問の手紙が来るが、時々本末顛倒したことを言って来る人がある。

 「生長の家の宇治で、堕胎した子供を祀って下さると聞いたが、私も近日中におろそうと考えているから、祀って頂く手続きを教えてください」 というのである。祀ってさえ貰えば何人でも堕すつもりで居られるらしい。

 生長の家では、〃祀って上げるから心配しないで堕(おろ)しなさい〃と勧めているのではない。鬼のような親に殺されて、それを恨み悲しんでいる赤ん坊たちが可哀想なので、その霊魂を慰め祀って上げ、霊界で幸せに暮らすように祈って上げるのである。

 教えにふれた親たちは、たとい胎内にいる小さい子供でも、一個の人命をもつものであるから、殺人の大罪を犯したことだと教えられ、再び同じ罪を犯さなくなるのが当然である。

 実家の親が勧めたからとか、夫が堕せと命令したからだとか言って、責任を他になすり附ける母親があるが、母親さえしっかりした信仰をもっていたならば、悪に抗して、神より与えられた幼い命を護って行けるのである。誰の責任でもない。胎内に子をもつ母親が、子を殺す意志が無かったなら、誰も堕したりは出来ないのである。〃親がすすめたからだ、夫がすすめたからだ〃などと言ってはならない。自分が為したのであるから。

 子供を堕しては祀って貰い、また堕しては祀って貰いして、それでよいと思っている人は、自分も永久に救われないのである。懺悔さえしたら、また罪を犯してもよいと考えて、くり返しくり返し罪を犯しているのである。そこには神の子の救いは永遠にない。

 『チベット人の宗教の経典の中には、「懺悔はよく天路に往生せしむ」などの言葉が幾つもあるそうだから、彼らは懺悔さえすれば、一切の罪は消えると信じこんでいて、幾ら罪を犯しても構わない、懺悔さえしたら消えるのだからと信じて、悪行を重ねて居るようである』 (河口慧海師『チベット旅行記』)

 そんな考え方は本物の信仰ではないのである。懺悔さえすればよい。また悪事をしても、その都度懺悔をして置けばよいという考え方は、あたかも私たちが、よごれた手を石鹸で洗い、またよごれたら石鹸で洗い、幾度よごれても石鹸で洗いさえすれば綺麗になるからと、何等の罪悪感もないのと同じである。

 だが、石鹸で洗うような肉体的な汚れではなく、行いの汚れは、自分の魂を汚すだけではなく、他をも汚し傷つけ、相手が多ければ多いほど、罪をひろげて行くことになるのであるから、懺悔という石鹸で一週間ごとに洗い清めて見ても、再び三たびと悪行を積み重ねて行くほど害毒は大きくなるのである。

 懺悔という魂の汚れを洗う石鹸を使う時は、いい加減な心構えで使ってはならない。断じて罪を重ねないことを決意し、心の底から前非を悔い、明日からの生活態度が改められなければならない。

 今日懺悔して、明日からまた悪行をつづけてもよいと思う者は、本当の懺悔をしたのではなかった。明日からまた手をよごそうと思うけれど、今日は一と先ず洗って置こうとするだけである。口先きだけで神や仏に詫びて見て、心のうちでは少しも詫びていないのである。そのようなことは決して懺悔と言われないと思う。

     谷口輝子 生長の家白鳩会総裁  「白鳩」 昭和40年7月号


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