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非武装信仰板

1605シャンソン:2019/02/22(金) 00:38:43
      実体はスクリーン

 毎日毎日、いろいろなことが目の前を通り過ぎていきますが、
そんな現象に巻き込まれることなく、いつも穏やかで一定している存在が僕たちのなかにいます。
その部分はちょうど映画のスクリーンみたいな存在です。

 僕たちはいつも、そのスクリーンに映るドラマに夢中で、スクリーンの存在を忘れています。
そして刻々と変化する映像に一喜一憂して、心や体をすり減らしているのです。
でも本当の自分は、移り変わる映像ではなく、その背後にあるスクリーンです。

 ドラマの出演者としての自分から、スクリーンとしての自分に飛び移ることが、「さとり」といわれている現象です。
それは映像のなかでは決して起きません。次元が違うのです。映像は実体ではありませんが、スクリーンは実体です。
 人生は映画のドラマであり、本当の自分はそれを映し出しているスクリーンです。どんなに残酷な映画でも、どんなにつらく悲しい映画でも、スクリーンは
何ひとつ影響されていません。それはいつも一定で、汚れることも、きれいになることもなく、増えることも、減ることもありません。スクリーンの自分を自覚した時、映像(現象)に
右往左往することがなくなります。

 僕がこうして話し続けているのは、多くの人たちにスクリーンである自分に気づいてもらうためです。
それは何かとてもつもないことが起きることではなく、当たり前の事実に気づくことです。
「さとり」というと、なんだかすごく大げさに聞こえますが、単に本当の自分の姿を思い出すことでしかありません。
まさにそれは思い出すことなのです。

 だって、いつもは映像を見ていますが、その映像はスクリーンに映し出されているのであって、本当はスクリーンを見ているのと同じだからです。
自覚していないだけで、僕たちはいつもスクリーンを見ているのです。だから、本当は誰もがさとっています。ただそのことを自覚していないだけです。
だからあなたがさとった瞬間、必ず感じることがあります。

「なーんだ。このことは最初の最初から知っていたじゃないか」
そうなんですよ。実はいまもあなたは「それ」を体験しています。あなたは「それ」以外であったことはないからです。
僕がいつも「だいじょうぶ、心配ないよ」と言うのはそういう意味です。

 いまあなたが、どんなドラマのなかで誰を演じていようと、そんなものは空中の霧のようなものなのですから。
ドラマのなかで苦しんでいる人を、そのドラマのなかに入っていって助けようとしても無理な話です。世の中には、そういう人が多いですが、その人は
自分が何をやっているのか知らないのです。映画のなかで苦しんでいる人を救う道はただひとつ。

 その人を映画のなかから連れ出して、スクリーンの自分に気づかせてあげることだけです。

    『さとりの授業』 安倍敏郎 著


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