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非武装信仰板
1549
:
伝統版 転載
:2018/09/10(月) 12:13:02
原爆にも犯されない奇蹟の体験〜その3 - 伝統
2018/08/11 (Sat) 04:41:42
*神秘面より観たる『生長の家』四十年史(p.45-46)より
それは昭和20年8月9日、アメリカ空軍機B29が長崎を「原子の火」をもって
攻撃した時のことであった。
B29機は長崎市の中央にあらわれて、そこに落下傘(らっかさん)にぶらさげた
原子爆弾(それは後に明らかにされた所によると、広島を襲った原子爆弾よりも
2倍の爆発力をもったプルトニューム爆弾であった)を投下すると、
そのまま西の空に消え去ったのであった。
丁度その時、長崎の東端にある町、浦上にある有名なカトリック教会では、
その信者の90%の人々が集まって熱心な祈りを捧げていたのである。
それはカトリックのことであるから「主イエス・キリストの受け給いし苦しみを
我にも受けせしめ給いて、自分たちを代贖者(だいしょくしゃ)として
この戦争を終結せしめ給へ」というような意味の敬虔(けいけん)な祈り
であったと思われる。
そのとき落下傘によって空中に浮かんでいた原子爆弾は恰(あたか)も
その祈りに応えるかの如く、風に吹かれて、その熱祷(ねっとう)を
捧げている最中の、教会の真上まで来ると、ピカドンと爆発したのであった。
そしてその熱祷を捧げている最も敬虔なキリスト信者たちは一瞬のうちに
霊界に移行したのである。
その教会の隣に、長崎医大及びその付属病院があった。
病院勤務の臨床を担任している博士たちは一瞬のうち全部息の根が絶えた。
病院全部を暖房するための煙突は“く”の字にひんまがり、
付近の山王神社の御影石の鳥居はその一方の柱が無残にもへし折れて飛んだ。
それは8月の事であったから大学は休暇であったから学生には被害がなかったが、
学科を担任している教授たちは、頻々(ひんぴん)として長崎を襲ってくる
空襲のために、もしか大学校舎に爆弾が命中して火を発したら、防火に従事する
必要のために出勤して、泊り込んで当直する事になっていたのであった。
当直に当たっていた教授は皆、無慚(むざん)な死をとげた。
その日出勤していなかった教授だけが救かったのである。
精神科の科長をしていられた高瀬清博士は(その夫人が長崎の生長の家白鳩会長
であった)、その休暇を無駄に過ごさないで有益に利用しょうと思って
8月1日から7日までの1週間、歯科医を集めて精神医学の講座を開いて、
毎日数時間の連続講義をすることにせられたのであった。
1週間連続の講座が終わると、教授の一人が、高瀬博士に
「先生は御老体でもあるのに1週間も連続の御講義では、お疲れでしょうから、
3日間位は公休をお貰いになって自宅で静養して下さい」と勧めるものであるから、
8月8日、9日、10日と3日間、長崎市から汽車で1時間半の距離にある
疎開先の自宅に帰って休養しておられたのであった。
そのために8月9日に長崎市を襲った原爆から自然に身をかわして
無事なるを得たのであった。
当時の生長の家幹部の人たちは、あの原爆の当日、あの時間に、
不思議にも何かの用向きで長崎市にいないで、原爆とスレ違って
救かっているのである。
どんな災害も、心がそれに波長があわねば近づくことが出来ないと言う
真理の実証と見ることが出来るのである。
<感謝合掌 平成30年8月11日 頓首再拝>
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