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非武装信仰板
1385
:
シャンソン
:2017/12/09(土) 11:16:01
「姥捨て山」は悲劇ではない
私が理想としているインド式の逝き方を、いまの日本で実践しようとすると、家族は犯罪者になる可能性があります。
その罪名は、「保護責任者遺棄致死罪」といいます。「保護しなければいけない相手を遺棄して死に至らしめた」という意味です。
遺棄とは「捨てて顧みない」ことですが、刑法上の遺棄罪は、保護しなければならない相手(要扶助者)を保護されない危険な場所に移したり、
置き去りにしたりする罪を指します。それによって、死なせると遺棄致死罪になります。
要扶助者とは、幼かったり、年老いていたり、障害や病気があったりして、1人では生計や生活が営めない子供や親、兄弟姉妹、配偶者などです。年老いた親を
家に寝かせ、水しか与えないで見送るというインドの現代版「遊行期」は、日本ではまさしく遺棄致死罪となるわけです。
保護者責任者が意図的に、あるいはネグレスト(するべき育児や介護を怠り、放棄すること)によって遺棄行為をし、その結果、要扶助者の安全や健康が脅かされては困るので、
それを防ぐ目的で定められた罪ということはわかります。
しかし、「病院で管だらけにしないで、住み慣れた家で安らかに見送ってあげたい」という人のケースでも、この罪に問われてしまうこともあるのです。
本人が自分の意志で「安らかに死にたい」と思い、「もう、ごはんを食べたくもないし、食べなければ自然に弱って安らかに向こうに行けるから」と、
食べないことを希望している場合に、家族がそれを尊重するのは、決して許されないことではないと思います。
家族がその気持ちを察し、安らかに清潔に、楽しく過ごさせて向こうに行かせてあげると罪になるというのは、おかしなことではないでしょうか。
このことについて、真剣に考えるべき時期に来ていると考えます。人それぞれ、いろいろな考えや感覚があると思いますが、私は病院で苦しんで死にたくありません。
安らかに向こうの世界に移行できるインド式の逝き方で、ぜひ旅立ちたいのです。この旅立ち方は、介護する家族にとっても、たいへんらくです。
いまの終末期医療で、濃厚な医療を受けながら何年も生きることになると、本人はもちろん、家族にとっても地獄です。
家族による介護は美談にされがちですが、本来の旅立ちのタイミングを医療で長引かせ、その分、家族を苦しめることは、美談としてかたづけてはいけない問題でしょう。
ここまで「インド式の逝き方」を述べてきましたが、古くは日本にも、同じような考え方がありました。深沢七郎の小説『楢山節考』で描かれている「姥捨て伝説(棄老伝説)」です。
姥捨ての風習そのものは、実際にどのくらいあったのか、確かなことはわからないようです。しかし、非常に貧しかった時代、もともと死に対する独特の潔さを持つ日本人が、孫子のために
命の最期を自ら決める行為を、何かの形で実行していたとしても不思議ではありません。
姥捨て伝説は、よく悲惨な話として語られます。しかし、年老いた者が旅立つときを自ら決めることは、決して悲劇ではないと私は思います。
老人たちは見捨てられたのではなく、自ら死を受け入れ、潔く山に向かったのです。ちなみに、『楢山節考』に描かれた「おりん」には、肝臓ガンを患い、自らの意志で逝くために絶食をしていた
深沢七郎の実母の生きざまが反映されているそうです。
もっとも私自身、若いころには、こうした考え方を受け入れることはできませんでした。いま、70歳を過ぎて、自然に受け入れられるようになったのです。
すべての生物に、天から授かった寿命があります、黄色い木の葉がスッと枝を離れて地面に落ちるのを見ると、私は「とうとうそのときが来たのね。ご苦労さま」と心でつぶやきながら、静かで平和な気持ちになります。
できることなら、自分もそのように静かに、安らかに逝きたいと思うのです。
『食べない、死なない、争わない』 稲葉耶季 著
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