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非武装信仰板

1381シャンソン:2017/12/01(金) 16:25:19
   免許や資格なんてクソくらえ!人を肩書で判断することなかれ。

 厳しい修行を続けてはみたものの、悟りを開いたかどうか、それを証明することは難しい。
それなら師となる僧侶が証明書を発行するのがよいのでは、ということから「悟りを開いた」と
認めた弟子に発行したものが「印可状」。

 一休さんは、この印可状についてあまり快く思っていなかったようである。
生涯を通して、一通の印可状も与えなかったばかりではなく、自分(一休)から印可状を与えられたとする者は
罰するように宣言もしているのだ。   免許や資格なんてクソくらえ!人を肩書で判断することなかれ。

 厳しい修行を続けてはみたものの、悟りを開いたかどうか、それを証明することは難しい。
それなら師となる僧侶が証明書を発行するのがよいのでは、ということから「悟りを開いた」と
認めた弟子に発行したものが「印可状」。

 一休さんは、この印可状についてあまり快く思っていなかったようである。
生涯を通して、一通の印可状も与えなかったばかりではなく、自分(一休)から印可状を与えられたとする者は
罰するように宣言もしているのだ。

 「塾(つら)つら諸方を視るに、邪解は牛毛のごとく、正見は麟角もごとし(中略)。老拙は生平、未だ曽て印せず。
仏法を自負し、作家を僭称するときは、即ち款案に渋らず、鞭垂して急に須らく御史に告げて獄繋すべし。」(一休和尚年譜)

 つらつら諸方の修道の様子を見るに、誤っている者は極めて多く、正しい識見を持っている者は非常に少ない。(中略)自分はこれまで一人も印可状を与えた者がいない。もし仏法がわかった、悟ったと自称する者があれば、寛大な措置をとらずに鞭して役人に告げて獄につなげてほしい、とまで言っている。
印可状があれば悟得の質を吟味しない風潮があったのであれば、それは修道の形骸化ということになる。
修道者が俗に対する優越の感情を隠して、水準の低い印可を方便として運用するのであれば、修道の自壊が始まっていると一休さんは考えた。

 一休さんがこだわったのは、僧としての求道。その原点に戻ることを求めたことで、印可状の有無は意味がないことと考えた。印可状を
乱発することで、修道の質が低下することを嫌い、ひとたび印可状をゲットしてしまえば、その後は何も修行をしないような僧がいたとすれば、そんな風潮を忌み嫌ったがゆえの行いだったのだろう。

    『オトナの一休さん』 NHKオトナの一休さん制作班

 「塾(つら)つら諸方を視るに、邪解は牛毛のごとく、正見は麟角もごとし(中略)。老拙は生平、未だ曽て印せず。
仏法を自負し、作家を僭称するときは、即ち款案に渋らず、鞭打して須らく御史に告げて獄繋すべし。


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