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非武装信仰板

129さくら:2013/04/25(木) 10:26:51
>>127
訊け管理人様

嬉しい報告。
さいきん友人に、訊けブログ紹介させて頂きましたところ、喜びの声が。
この人も組織がいやで、生長の家をやめてました。
…組織事情に詳しいからって真理がわかるわけじゃないから、ネットもあまり見ないそうで、(確かにね、)
この掲示板にも、まったく興味はないので、ここでの訊け管理人様の…惨事?は知りませんが、笑。


吉田國太郎先生などもそうですが、むかしの講師軍の素晴らしかったことの一つ感じるのは、
「人間神の子の喜び」に、妥協なく、徹底した実感がありますね。

どこの本になにが書いてあるから、教えがそうだから「許すことや愛することがいいことですね」とか、「みんなで手をつないで仲良くしましょうね」とか……
確かに正論ですが、そういう、お道徳のお勉強みたいな話ならどこかのエライ宗教家にでも聞けるかもしれませんけど、
ほんらいの生長の家の話は、「人間神の子」が、綺麗事の言葉というだけでなく、魂の底からの実感の言葉として、人の神性に響いていたんじゃないかと感じます。
それが、信徒にとって、一番魂の喜びだったし、
結局、人間神の子の真の祈りのある言葉こそ、人を救ってきたのだな、とおもえます。
初めての方でも体験がたくさんあったのは、その喜びは、知識があるとか、長く生長の家にいてお勉強しただとか、関係なかったんですね、
だって、徐々にお勉強して神の子や聖人になれるわけではなく、すでに神の子であることを、喜ぶだけなんですよね、生長の家は。それがすごいことだとおもいます。

先日の話から、清超先生のご指導のことも思いだしていました。
先生は、べつに奇跡が起こったから真理だとかいうご指導をされず当たり前の大切さを説きながら、分け隔てなく信徒のそれぞれの「正しい信仰による」真実の体験も大切にされて、お一人お一人親しく耳を傾けて下さってました。
そういう信仰には、真も偽だの分裂させる心がないですし、
そこには、自分が都合の良いことや綺麗事を言ってくれる人だけを「神の声」とせず、すべての人の中に神を観て下さる、「祈り」があると感じてます。

そういう指導者がいた生長の家が、懐かしいですね、

いまの教団もそうですけど、…結局、組織の方針とか一部の方に都合のよい綺麗事などは、…いくら正論でも、人の心には届かないのではないかとおもいます。

ブログ見た人もいってたんですが、訊けブログには、人間神の子の真理を知った喜びが感じられるとのこと。

結局、どれだけ人間神の子の真理を喜べるか、とか、
喜んだ者勝ちというか…、
わたしは、部外者の監督から、そういうことを学んでます、笑。

お礼まで。
またお願いします。




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