したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

非武装信仰板

1170転載:2017/08/19(土) 11:56:37
>真理は一つ。宗教はいくつ?

>こんにちは。はじめまして。

 ideaismさんは、『三酸図』という絵があるのをご存知ですか?仏教の中でも禅宗系の水墨画で、室町時代から江戸時代にかけてよく描かれて親しまれました。
 絵には、釈迦と孔子と老子が一緒に大きな瓶の前に立っています。その瓶の中には酢が入っています。釈迦は、これを舐めて「ウン、酸っぱい」と言うわけです。すると、孔子は同じように舐めて「そうよね、酸っぱいワ」と言い、老子も「ホントホント、マジ酸っぱい」と、満場一致で「酢は酸っぱいのだ」ということが決定するという、賢者が三人揃って、まあ、当たり前のことを言ってる瞬間の絵です。
 この絵が言わんとしているのは、宗教は違えど、「酢は酸っぱい」という真理は変わらないということ、言い換えれば、それぞれの教祖の語ることの真髄は同一である、ということを例え話にしたものです。昔から人々にはやはり「真理はひとつ」という概念があって、宗教の違いでケンカしたり軽蔑してはいけないことを、ちゃんと知っているのですね。
 
 それでは、真理とは何か。それはきっと哲学であり、文学であり、農業であり、畜産であり、科学であり、魂であり、細胞活動であり、宇宙に存在する数え切れない程の生命活動と霊的なものの総合体でしょうから、あまりに壮大すぎて私には何が何だか分かりませんが、何らかの生なり物質なりが存在する以上、「真理」というものは確かに存在すると思います。

 「ひとつ」といえば、宗教というものは、その多くが「死」を一つのキーワードにして成り立っているようにも思われます。釈迦が「生・老・病・死」を東西南北の門に見、それによって出家した四門出遊の逸話、そしてダイナミックな涅槃、キリストの磔刑および最後の審判、ピラミッドや古墳という人類の遺産がそれを物語ります。
 死について話すのはあまりにおこがましくて、気持ちのいい話ではありませんが、宗教というものは、死という絶対的なものへの恐れから、望ましい生の在り方へ、何らかの模索をする存在なのかもしれません。 
 自分が何教徒であるかなんて無自覚であっても、人が亡くなればその大事を見送るためにお葬式をします。それは各国そうであって、キリスト教徒は彼らなりの(もちろん一絡げにはできませんが)、イスラム教徒はその習慣に合ったお葬式をします(ここでは「葬式仏教」の問題については他日に任せましょう)。

 つまり、宗教はツールであると思います。軽い言い方に聞こえるかもしれませんが、人間が生きるために利用する生活の糧や、権力を支えるものであり、また、死者や大いなる力との交信に用いてきた道具のようなものではないでしょうか。敢えて「真理」という言葉と結びつけるのなら、宗教は「真理」へ到達するための手段として、人間が作り出した「梯子」のようなものと私は考えます。ただ、その梯子には色々と凝った仕掛けがしてあります。単に細くて長い梯子を一歩一歩登っていくものもあるだろうし、端っこに付いているボタンを押して呪文を唱えたらワープする梯子かもしれない。いつの間にかとんでもない方向に反れて真逆様に落下する梯子かもしれない。色々な梯子があります。
 宗教と真理は別物であって、「宗教=真理」ではなく、「宗教=真理に到達する手段」。これが、世界中に数多の宗教が存在する理由であると私は考えます。一生懸命作りあげた梯子ですから、出来るだけ良い設置場所を確保したい。その場所をめぐってお互いにケンカしたり、弱い立場の者を迫害してしまうのかもしれません。

 さて、どの梯子に登るか。梯子に登るには多少の交通費が掛かります。お布施や会費などの心づけが必要です。とはいえそれは、あくまでも梯子の維持費であり運営費です。支払ったからといって真理への道が保証されたわけではありません。さあ、どの梯子が真理へと導いてくれるのでしょうか?・・・・・私には見当もつきません。ただ、広い意味で宗教は、生活必需品として、そしてひとりひとりが発展していくための手段として、人間にとって必要不可欠な存在であるような気がします。
 ideaismさんはどう思いますか?


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板