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「まじめな話」の板
90
:
「訊け」管理人
:2012/09/25(火) 07:58:07
あれだけ誤読の余地なく精密に書かれた『生命の實相』ですが、こんなに読む人によって解釈が変わるものなのでしょうか。問題は雅春先生の筆力なのでしょうか。それとも私の読解力が問題なんでしょうか・・・・・「和解」って単なるお題目なんですか。皆さん?お題目なら喜んで、今から捨ててしまいますが・・・・・「和解はお題目なのだ」、そんな聖典記述をご紹介くださいませ。
なお、私のスーパー読解力では「和解」ですが、たんなるお題目には見えないんですよね・・・・目が曇っているんでしょうね、きっと。
<参考資料1>
『生命の實相』38巻(幸福篇下)47頁より謹写――
人間たちが互いに憎み合い、互いに悪口を言い合うのがわたしには不思議でたまらないのである。憎みや悪口の中には地獄があり、愛と讃め言葉の中には天国浄土があるということを知っていながら、それらの人々は憎み、かつ悪口を言い合っているのである。
互いに排斥し合う者は「生長の家」の誌友ではないのである。いわんや「生長の家」の講師ではない。それは地獄の役員であり、閻魔の庁の衛丁(えいてい)ぐらいのところだろう。
「生長の家」のためにならないからといって、ある人を排斥するのはまちがっている。「生長の家」はそんな小さなものではない。生長の家のためにならない人間などは世の中にないのである。毛虫でさえも世の中に何か貢献している。いわんや毛虫に幾億倍優っている人間においておやである。ある人間を毛虫のように思って排斥する人は、その排斥する方の人自身が毛虫のような心をもっているのである。
毛虫が人に嫌われるのは、自分を衛(まも)るために人の不快がる装いをして平気なことである。自分を衛るために、人の迷惑になる悪口を言う人は毛虫の心である。
<参考資料2>
『生命の實相』38巻(幸福篇下)122頁より謹写――
なんじの愛の乏しきを嘆け。
なんじの心に審判の満ちたるを嘆け。
なんじの心に虚偽の満ちたるを嘆け。
働きを惜しむ心を嘆け。
真理がなんじの心のうちに未だ顕われざるを嘆け。
本物を覆い隠す泥棒のみ
主人公の顔をしてなんじのうちに幅を利かせていることを嘆け。
なんじの物質精神を嘆け。
「本当の汝」はいずこにいるぞ。
それでもなんじは「真理」を悟ったというか。
『生命の實相』を読んだというか。
いな、いな、いな、断じて。
真理はなんじの中にいないのである。
「本当の汝」はなんじの中にいないのである。
「本当の汝」をなんじの中に呼び戻せ。
なんじは癒ゆるであろう。
<参考資料3>
『善と福の実現』14頁より謹写――
世界の根源が神であり、神が善であるとわかったならば、そして神のみがすべての渾てであるとわかったならば、世の中に悪意ある対立などありようがないのである。「敵がない」という人生観にならなければならないのである。「敵がある」と云う人生観に立つ限り、自分の妄想によって「敵」を描き、描くゆえにその「敵」が現実にあらわれ、ついにその敵のために敗北せしめられると云うことになるのは、古今東西の実例によっても明らかなことである。
「敵」だと思えば、敵でないものが敵とあらわれて来る。すべての存在は「敵」ではない、「善意」と「愛」とをもって吾々に何かを互いに貢献し協力すべく与えられているところの存在と信じ、現実に「敵」とあらわれていても、それは敵ではないとして「実相」の善を信頼して厚遇するならば味方となってあらわれて来るのである。
敵があると信じ、不調和が存在すると信じ、それに対して身構えすることは、神の善意と、その無限力とを信じない不敬の罪だと云わなければならない。
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