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「まじめな話」の板

8347トンチンカン信徒:2019/03/30(土) 03:12:04
1.概要
仏教系新宗教の在家団体である立正安国会(後の国柱会)の創立者田中智學が、1902年(明治35年)の『本化妙宗式目』において最初に提唱した概念である。
大日本帝国時代の法華宗各派においてこの構想は、天皇帰依の実現こそ広宣流布実現の近道という当時の一般的な状勢判断と結びついて、広汎な支持を受けた。
日蓮の手紙「三大秘法稟承事」に書かれているように、国の許可を受けて戒壇を建立するのが日蓮の悲願であり、遺言であると弟子たちは受け取っている。
歴史的にみても、戒壇の建立は国家的な事業であった。しかし、第二次世界大戦以降、政教分離を規定した新憲法が施行され、天皇が主権者でなくなると、天皇帰依を前提とした国立戒壇論の意義は変化することとなり、法華宗各派において論じられることがなくなった。しかし、日蓮正宗およびその信徒団体は、国立戒壇という用語を使用し続けた。
1970年(昭和45年)4月15日の衆議院予算委員会において日本共産党の谷口善太郎が「国立戒壇は政教分離を規定する憲法に違反するではないか」と指摘する。これを受け、日蓮正宗および創価学会は、御書の御文になく、もともと他宗で作られた用語を布教のために便宜上使っていたということもあり、国立戒壇という用語の使用を自宗内で禁止した。日蓮正宗は信徒団体だった妙信講(現・冨士大石寺顕正会)を使用禁止命令に従わず、国立戒壇という用語を使用し続けたため破門した。妙信講は、1996年に宗教法人「顕正会」、「富士大石寺顕正会」と改め、引き続き国立戒壇論を主張している。(冨士大石寺顕正会という名称を名乗っているが、日蓮正宗大石寺とは法律上何の関係もない。)
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(ポイント)

①大日本帝国時代の法華宗各派においてこの構想は、天皇帰依の実現こそ広宣流布実現の近道という当時の一般的な状勢判断と結びついて、広汎な支持を受けた


②しかし、第二次世界大戦以降、政教分離を規定した新憲法が施行され、天皇が主権者でなくなると、天皇帰依を前提とした国立戒壇論の意義は変化することとなり、法華宗各派において論じられることがなくなった。しかし、日蓮正宗およびその信徒団体は、国立戒壇という用語を使用し続けた。
1970年(昭和45年)4月15日の衆議院予算委員会において日本共産党の谷口善太郎が「国立戒壇は政教分離を規定する憲法に違反するではないか」と指摘する。これを受け、日蓮正宗および創価学会は、御書の御文になく、もともと他宗で作られた用語を布教のために便宜上使っていたということもあり、国立戒壇という用語の使用を自宗内で禁止した。日蓮正宗は信徒団体だった妙信講(現・冨士大石寺顕正会)を使用禁止命令に従わず、国立戒壇という用語を使用し続けたため破門した。妙信講は、1996年に宗教法人「顕正会」、「富士大石寺顕正会」と改め、引き続き国立戒壇論を主張している。(冨士大石寺顕正会という名称を名乗っているが、日蓮正宗大石寺とは法律上何の関係もない。)


※要する、戦前は、日野ボンの言う、天皇信仰では無く、天皇陛下を利用して、法華経に帰依(日蓮聖人=本仏)に、天皇陛下から、国民全て帰依させる、信仰形態なのが、会間見える、戦後は、国民主権や政教分離などため、天皇信仰ではない、やり方する、派をある。

何れにしても、国立戒壇を、目指すのかわらない。他宗を認めない為、無理矢理帰依させらる、思想が、根底にあるようだ。


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