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「まじめな話」の板

8123蒼天の實相:2018/12/26(水) 06:03:17
〜日野家の歴史〜

藤原内麻呂の子の真夏の孫にあたる家宗が、弘仁13年(822年)、伝領地である山城国宇治郡日野(京都市伏見区)に法界寺を建立して薬師如来の小像を祀った。その後代々この薬師如来を信仰し、永承6年(1051年)、子孫の資業があらためて薬師堂を建立、別名を日野薬師ともいった。これがその後資業を始祖とする門流の氏寺となり、家名も「日野」と名乗るようになった。
承安3年(1173年)に生まれた浄土真宗開祖の親鸞は、この一族の有範の子であると伝わる。親鸞は娘覚信尼を同族の広綱に嫁がせているが、その子孫が代々門主として本願寺を率いた大谷家である。
日野流はいずれも代々儒学を家業として発展し、院政期以降名家の家柄として定着した。極官はおおむね中納言だったが、鎌倉時代に伏見天皇に重用された俊光がはじめて権大納言にまで昇り、日野流の嫡流の地位を確立した。元亨2年(1324年)に発覚した後醍醐天皇の武力倒幕計画である正中の変に積極的に参画したことで著名な資朝はこの俊光の子だが、父が持明院統の重臣であったにもかかわらずあえて大覚寺統の傍流である後醍醐に仕えたために父から勘当されている。同様に後醍醐に仕え、元徳3年(1331年)に発覚したさらなる倒幕計画元弘の乱に参画した俊基は日野流の庶流の出身である。
建武の新政が崩壊して足利尊氏と後醍醐天皇との対立が決定的となり軍事衝突に至たると、日野家出身の三宝院賢俊は持明院統の光厳院から尊氏に対し後醍醐追討の院宣を下す仲介をした。このことを契機として日野家と足利家の結びつきが生じた。正平の一統が破綻したあとに尊氏が擁立した後光厳天皇からも重用された日野家からは、公家の分家の創立が低調だったこの時代にあって、裏松・烏丸・日野西など多くの分家が創出された。室町幕府3代将軍足利義満の御台所だった業子及び康子(裏松家出身)以後、将軍の正室は日野流、特に裏松家から出すことが例となり、4代義持の正室栄子、6代義教の正室宗子、8代義政の正室富子、9代義尚の正室(実名不詳、勝光の娘)、11代義澄の正室(実名不詳)と6代にわたって将軍の御台所を輩出している。一時、義政の継嗣に擬せられた義視の正室も勝光・富子の妹(実名不詳)である。
その一方で日野流の隆盛は将軍にとっては重荷となる側面もあり、6代将軍義教は日野流の勢力抑制に乗り出す。御台所だった宗子も退けられ、代わって正親町三条公雅の娘である尹子が御台所となった。日野流の宗家である有光も義教の不興を買って失脚し、所領没収の憂き目を見ている。家督と所領は有光の弟秀光が代わって継いだが、永享4年(1432年)に彼は死去し、日野流に属する広橋家の兼郷の子春龍丸が跡を継いだ。しかし春龍丸もその年のうちに死去し、結局日野家の家督と所領は兼郷に与えられ、兼郷は一時「日野中納言」を名乗っている。
失意の有光は南朝復興を目指す後南朝と結んで、嘉吉3年(1443年)9月に金蔵主を擁して禁裏を襲撃し、三種の神器の一部を奪う禁闕の変を起こすことになった。有光らは比叡山延暦寺の根本中堂に立て籠もったがやがて討たれ、有光の子資親も六条河原で処刑され、日野家はいったん完全に断絶した。
義教が嘉吉元年(1441年)に赤松満祐により殺害されて、その行き過ぎた専制政治に対して原状を回復しようとする動きが起き、この一環として日野家の再興もはかられることになった。新しい日野家の当主となったのは、やはり日野流に属する裏松家の当主で義教の指示により暗殺された義資の孫勝光だった。義教の跡を継いで将軍となった7代義勝・8代義政の母重子が裏松家の出身だったことによるものと考えられる。その後勝光の妹富子が義政の御台所となると、勝光はこの義政と富子のもとで強大な政治的影響力を握り、本来名家の家格では昇進することのできない左大臣にまで昇り「押大臣」(おしのおとど)と呼ばれた。勝光の死後は子の政資が継いだが早世。政資の跡は徳大寺実淳の次男高光(のち澄光、内光と改名)が継いだが、彼は桂川原の戦いに参加して戦死した。家運はしだいに傾き、さらに内光の子息晴光の嗣子である晴資も下向していた駿河において父に先立って早世する。その後の晴光の死により日野家は、またもや断絶することとなった。


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