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「まじめな話」の板

7841蒼天の實相:2018/11/18(日) 12:16:35
〜江戸城(現在・皇居)〜
概要
江戸城(えどじょう)は、武蔵国豊嶋郡江戸(現在の東京都千代田区千代田)にあった日本の城である。江戸時代においては江城(こうじょう)という呼び名が一般的だったと言われ、また千代田城(ちよだじょう)とも呼ばれる。
江戸城は麹町台地の東端に、扇谷上杉氏の家臣太田道灌が築いた平山城である。近世に徳川氏によって段階的に改修された結果、総構周囲約4里[2]と、日本最大の面積の城郭になった[3]。
徳川家康が江戸城に入城した後は徳川家の居城、江戸幕府の開幕後は幕府の政庁となる。明治維新後の東京奠都で宮城(きゅうじょう)となった。以後は吹上庭園が御所、旧江戸城西ノ丸が宮殿の敷地となっている。その東側にある旧江戸城の中心部である本丸・二ノ丸と三ノ丸の跡は皇居東御苑として開放されている。南東側の皇居外苑と北側の北の丸公園は常時開放され、それらの外側は一般に利用できる土地になっている。
国の特別史跡に指定されている。


1.歴史・沿革
1.1.築城まで
江戸(東京)の地に最初に根拠地を置いた武家は江戸重継である。平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての江戸氏の居館が、後の本丸・二ノ丸辺りの台地上に置かれていたとされる[5]。



1.歴史・沿革
1.2.築城
15世紀の関東の騒乱で江戸氏が没落したのち、扇谷上杉氏の上杉持朝の家臣である太田道灌が、享徳の乱に際して康正3年(1457年)に江戸城を築城した。徳川幕府の公文書である『徳川実紀』ではこれが江戸城のはじめとされる。
道灌当時の江戸城については、正宗龍統の『江戸城静勝軒詩序并江亭記等写』や万里集九の『梅花無尽蔵』によってある程度までは推測できる。それによれば、「子城」「中城」「外城」の三重構造となっており、周囲を切岸や水堀が巡らせて門や橋で結んでいたとされる(「子城」は本丸の漢語表現とされる)。『江戸城静勝軒詩序并江亭記等写』によれば道灌は本丸に静勝軒と呼ばれる居宅を設け、背後に閣を築いたという。『梅花無尽蔵』は江戸城の北側に菅原道真が祀られて梅林があったことが記されている[6]。
道灌が上杉定正に殺害された後、江戸城は上杉氏の所有するところ(江戸城の乱)となり、上杉朝良が隠居城として用いた。ついで大永4年(1524年)、扇谷上杉氏を破った後北条氏の北条氏綱の支配下に入る。江戸城の南には品川湊があり、更にその南には六浦(金沢)を経て鎌倉に至る水陸交通路があったとされていることから、関東内陸部から古利根川・元荒川・隅田川(当時は入間川の下流)を経て品川・鎌倉(更に外洋)に向かうための交通路の掌握のために重要な役割を果たしたと考えられている。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻め(小田原征伐)の際に開城。秀吉によって後北条氏旧領の関八州を与えられた徳川家康が、同年8月朔日(1590年8月30日)、駿府(静岡)から江戸に入った[7]。一般に言われる話では、そこには、道灌による築城から時を経て荒れ果てた江戸城があり、茅葺の家が100軒ばかり大手門の北寄りにあった、とされる。城の東には低地があり街区の町割をしたならば10町足らず、しかも海水がさしこむ茅原であった。西南の台地はススキ等の野原がどこまでも続き武蔵野につらなった。城の南は日比谷の入り江で、沖合に点々と砂州があらわれていたという[8]。


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