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「まじめな話」の板
7776
:
蒼天の實相
:2018/11/11(日) 22:18:11
>>7775
〜承久の乱・関東政権〜
4.戦後処理
7月、首謀者である後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島にそれぞれ配流された。討幕計画に反対していた土御門上皇は自ら望んで土佐国へ配流された(後に阿波国へ移される)。後鳥羽上皇の皇子の雅成親王(六条宮)、頼仁親王(冷泉宮)もそれぞれ但馬国、備前国へ配流された。仲恭天皇(九条廃帝、仲恭の贈諡は明治以降)は廃され、行助法親王の子が即位した(後堀河天皇)。親幕派で後鳥羽上皇に拘束されていた西園寺公経が内大臣に任じられ、幕府の意向を受けて朝廷を主導することになる。
後鳥羽上皇の膨大な荘園は没収され、行助法親王(後高倉院の称号が贈られる)に与えられた。ただし、その支配権は幕府が握っていた。
討幕計画に参加した上皇方の「合戦張本公卿」と名指しされた一条信能、葉室光親、源有雅、葉室宗行、高倉範茂ら公卿は鎌倉に送られる途上で処刑され、坊門忠信らその他の院近臣も各地に流罪になったり謹慎処分となった。また藤原秀康、藤原秀澄、後藤基清、佐々木経高、河野通信、大江親広ら御家人を含む京方の武士が多数粛清、追放された[8]。
乱後、幕府軍の総大将の泰時、時房らは京の六波羅に滞在し、朝廷の監視や西国武士の統率を行う。朝廷は京都守護に代り新たに設置された六波羅探題の監視を受けるようになり、皇位継承をも含む朝廷に対する鎌倉幕府の統制が強化された。
京方の公家、武士の所領約3000箇所が没収され、幕府方の御家人に分け与えられ新補地頭が大量に補任された。
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