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「まじめな話」の板
7770
:
蒼天の實相
:2018/11/11(日) 19:56:11
〜多賀城〜
概要
多賀城(たがじょう/たがのき、多賀柵)は、現在の宮城県多賀城市にあった日本の古代城柵。国の特別史跡に指定されている(指定名称は「多賀城跡 附 寺跡」)。
奈良時代から平安時代に陸奥国府や鎮守府が置かれ、11世紀中頃までの東北地方の政治・文化・軍事の中心地であった[2]。なお、多賀城が存在した頃は「平安海進」により、周囲は現在と大きく異なる地形をしていたため注意が必要。
1.概要
奈良盆地を本拠地とする大和朝廷が蝦夷を制圧するため、軍事的拠点として蝦夷との境界となっていた松島丘陵の南東部分である塩釜丘陵上に設置した。創建は724年(神亀元年)、按察使大野東人が築城したとされる。8世紀初めから10世紀半ばまで存続し、その間大きく4回の造営が行われた。第1期は724年 - 762年、第2期は762年 - 780年で762年(天平宝字6年)藤原恵美朝狩が改修してから780年(宝亀11年)伊治公砦麻呂の反乱で焼失するまで、第3期は780年 - 869年で砦麻呂の乱による焼失の復興から869年(貞観11年)の大地震(貞観地震)による倒壊まで、第4期は869年 - 10世紀半ばで震災の復興から廃絶までに分けられる[3]。
多賀城創建以前は、郡山遺跡(現在の仙台市太白区)が陸奥国府であったと推定されている。陸奥国府のほか、鎮守府が置かれ[4]、政庁や寺院、食料を貯蔵するための蔵などが置かれ、城柵で囲み櫓で周囲を監視していたと考えられる。多賀城が創建されると、国府が郡山遺跡から移され、黒川以北十郡(黒川・賀美・色麻・富田・玉造・志太・長岡・新田・小田・牡鹿)に城柵・官衙とその付属寺院が設置・整備された。これらの設置・整備は律令制支配の強化を図るものであり、多賀城はそれらの拠点を後援する為の根拠地であった[5]。
これにより、平城時代の(狭義の)日本では、平城京を中心に、南に大宰府、北に鎮守府兼陸奥国府の多賀城を建てて一大拠点とした。
多賀城政庁に隣接し、陸奥国内100社を合祀する陸奥総社宮を奉ずる。陸奥国一宮鹽竈神社(塩竃神社)を精神的支柱として、松島湾・千賀ノ浦(塩竃湊)を国府津とする。都人憧憬の地となり、歌枕が数多く存在する。政庁がある丘陵の麓には条坊制による都市(後に多賀国府(たがのこう)と呼ばれる)が築かれ、砂押川の河川交通と奥大道の陸上交通が交差する土地として長く繁栄した。
建武新政期と南北朝時代初期、多賀城には陸奥将軍府が置かれた。奥州将軍府は、多賀城の陥落後、将軍府の中心的武将、伊達行朝の所領である伊達郡の霊山に移転した。
1961年から、多賀城跡とその周辺に位置する遺跡の調査が開始され[6]、外城は東辺約1000m、西辺約700m、南辺約880m、北辺約860mの土塁がめぐる。その中心からやや南寄りに東西約106m、南北約170mの土塁で囲まれた平坦な区域があり、そこに主要な建物の跡と見られる柱穴や礎石が複数確認された[7]。
1966年(昭和41年)4月11日、遺構は国の特別史跡に指定された[8]。その後も発掘調査が進展した結果、多賀城跡一帯とともに多賀城廃寺跡・館前遺跡・柏木遺跡・山王遺跡などを含む範囲の追加指定がなされている[9]。
2.歴史
762年(天平宝字6年) - 藤原朝狩によって修繕されている。
780年(宝亀11年) - 伊治呰麻呂の乱で一時焼失した後に再建された事が書かれている。
802年(延暦21年) - 坂上田村麻呂が蝦夷への討伐を行い、戦線の移動に伴って鎮守府も胆沢城(岩手県奥州市胆沢区)へ移されて、兵站的機能に移ったと考えられる。
869年(貞観11年) - 陸奥国で巨大地震(貞観地震)が起こり、多賀城でも多くの施設が被害を受けた。この後復興していったが10世紀後半頃には維持、管理されなくなり、多賀城は次第に崩壊していった。
11世紀後半の前九年の役や後三年の役においても軍事的拠点として機能し、1097年(承徳元年)にも陸奥国府が焼失している。南北朝時代には、後醍醐天皇率いる建武政府において陸奥守に任じられた北畠顕家、父の北畠親房らが義良親王(後村上天皇)を奉じて多賀城へ赴き、多賀城に東北地方、および北関東を支配する東北地方の新政府、陸奥将軍府が誕生した。
近年では、曲水宴遺構が出土し、その編年の再検討も含めて注目されている。現在は特別史跡に指定され、政庁跡や城碑、復元された塀などが残されている。
2006年(平成18年)4月6日 - 日本100名城(7番)に選定された。
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