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「まじめな話」の板
7758
:
蒼天の實相
:2018/11/11(日) 11:05:28
〜鎌倉幕府〜
(関東政権誕生の日本正史)
▼人気記事ランキング
1.概要
1.1.成立過程の概略
まず1180年(治承4年)に鎌倉の大倉郷に頼朝の邸となる大倉御所が置かれ、また幕府の統治機構の原型ともいうべき侍所が設置されて武家政権の実態が形成された。朝廷は寿永二年十月宣旨(1183年)で頼朝に対し、東国における荘園・公領からの官物・年貢納入を保証させると同時に、頼朝による東国支配権を公認した。壇ノ浦の戦い(1185年)で平氏を滅ぼし、同年、文治の勅許(1185年)では頼朝へ与えられた諸国への守護・地頭職の設置・任免を許可した。そして1190年(建久元年)頼朝が権大納言兼右近衛大将に任じられ、公卿に列し荘園領主の家政機関たる政所開設の権を得たことで、いわば統治機構としての合法性を帯びるようになり、さらに1192年、征夷大将軍の宣下がなされた。こうして、名実ともに武家政権として成立することとなった。守護の設置で諸国の治安維持を幕府は担当したものの、その支配は限定的であったが次第に範囲を拡大し、承久の乱や元寇を経て、得宗家の専制支配が全国的な支配権を確立するに至った。
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まず1180年(治承4年)に鎌倉の大倉郷に頼朝の邸となる大倉御所が置かれ、また幕府の統治機構の原型ともいうべき侍所が設置されて武家政権の実態が形成された。朝廷は寿永二年十月宣旨(1183年)で頼朝に対し、東国における荘園・公領からの官物・年貢納入を保証させると同時に、頼朝による東国支配権を公認した。壇ノ浦の戦い(1185年)で平氏を滅ぼし、同年、文治の勅許(1185年)では頼朝へ与えられた諸国への守護・地頭職の設置・任免を許可した。そして1190年(建久元年)頼朝が権大納言兼右近衛大将に任じられ、公卿に列し荘園領主の家政機関たる政所開設の権を得たことで、いわば統治機構としての合法性を帯びるようになり、さらに1192年、征夷大将軍の宣下がなされた。こうして、名実ともに武家政権として成立することとなった。守護の設置で諸国の治安維持を幕府は担当したものの、その支配は限定的であったが次第に範囲を拡大し、承久の乱や元寇を経て、得宗家の専制支配が全国的な支配権を確立するに至った。
3.歴史
3.3.承久の乱
詳細は「承久の乱」を参照
後鳥羽上皇は、治天として専制的な政治を指向し、幕府の存在を疎ましく感じていた。実朝の暗殺を幕府の混乱・弱体化と見た後鳥羽は、幕府打倒を計画するようになり、政権を朝廷に取り戻そうと考えた。そして、承久3年(1221年)5月、後鳥羽は北条義時追討の院宣を発した。それまでの歴史から後鳥羽は、ほどなく義時が討ち取られ、関東武士たちも帰順すると見込んでいたが、幕府側は、頼朝以来の御恩を訴え、御家人の大多数を味方につけた。そして、短期決戦策を採り、2ヶ月も経たないうちに朝廷軍を打ち破った。
幕府側の主導で戦後処理が進められた。主謀者の後鳥羽上皇、そして後鳥羽の系譜の上皇・皇子が流罪に処せられ、仲恭天皇は退位、朝廷側の貴族・武士も多くが死罪とされた。当時の人々は、治天の君をはじめとする朝廷側の上皇・天皇・諸臣が処罰される事態に大きな衝撃を受けた。当時の社会における価値観は正反対に転換した。朝廷の威信は文字どおり地に落ち、幕府は朝廷監視のために六波羅探題を置き、朝廷に対する支配力を強めることとなる。
乱直後、朝廷は、次代の天皇を誰にするかを幕府へ諮った。これ以降、朝廷は治天・天皇を決定する際は必ず幕府の意向を確認するようになり、幕府と朝廷の立場が逆転したことを物語る。
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