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「まじめな話」の板

7011トンチンカン信徒:2018/08/09(木) 04:51:47
>>7010
♪〜極楽寺流北条氏2〜♪

北条 重時(ほうじょう しげとき)は、鎌倉時代前期の北条氏の一門・武将・政治家。極楽寺 重時(ごくらくじ しげとき)とも呼ばれる[2]。
鎌倉幕府2代執権・北条義時の3男。母は正室で比企朝宗の娘・姫の前。初代執権・北条時政の孫。尼将軍・尼御前と呼ばれた北条政子の甥にあたる。極楽寺流の祖。
六波羅探題北方・鎌倉幕府連署など幕府の要職を歴任し、第3代執権の異母兄・北条泰時から娘婿の第5代執権・北条時頼を補佐して幕政を主導しながら鎌倉幕府政治の安定に大きく寄与した。『六波羅殿御家訓』『極楽寺殿御消息』等の家訓の作者でも知られる[3]。


建久9年(1198年)6月6日、源頼朝死去の前年に、北条義時の三男として鎌倉で生まれる。母は頼朝の仲介で義時の正室となった姫の前で、父義時は36歳、同母兄の朝時は6歳、異母長兄泰時は16歳の時である。
建仁3年(1203年)、6歳の時に比企能員の変が起こり、母の実家比企一族が義時ら北条氏によって滅ぼされた。姫の前は義時と離婚して上洛し、源具親と再婚した3年後、重時が10歳の時に京都で死去している。『吾妻鏡』には、兄泰時・朝時、異母弟政村・実泰の元服記事があるが、重時の元服の記録はなく、元服した頃と思われる時期には母が京で亡くなっており、あまり恵まれた少年時代ではなかったと見られる。建暦2年(1212年)、15歳の時に義時の嫡男であった同母兄の朝時が父の勘気を被って義絶されている。


1.2.六波羅探題
承久元年(1219年)に22歳で小侍所別当就任。元仁元年(1224年)6月13日、27歳の時に父が死去し、異母兄の泰時が3代執権となる。寛喜2年(1230年)3月、京都で六波羅探題北方を務める泰時の嫡子で甥の時氏が病となったため、後任を受けて鎌倉から上洛し、33歳で六波羅探題北方に就任。以降17年間六波羅の最高責任者となる。「御成敗式目」制定に関して泰時から重時にあてた書状はよく知られている。
仁治3年(1242年)の幕府による後嵯峨天皇擁立の際には、重時の同母妹竹殿を妻としていた土御門定通と連携して工作が行われた。同年に執権泰時が重病となると、六波羅探題南方の従弟時盛と共に急ぎ鎌倉へ下った。泰時が没すると重時は六波羅に帰任したが、時盛は鎌倉に留まったため、探題は重時のみとなり、最後の5年間は重時単独で任に当たった。
泰時の死去にあたり、同母兄朝時は泰時の後継を巡って不穏な動きを見せているが、その詳細は不明。泰時と朝時の間は疎遠であり、その没後も両者の家系で嫡流争いを続ける事になるが、重時は一貫して長兄泰時との関係は良好で、重時の家系はその後も泰時の家系得宗家を支えている。
寛元4年(1246年)、宮騒動により前将軍藤原頼経が京へ強制送還される。この年の8月、重時は後嵯峨上皇院司葉室定嗣を六波羅に呼び、5代執権となった北条時頼からの書状として、事件に関与した九条道家父子の更迭を後嵯峨上皇に奏上するよう要請し、幕府と上皇の仲介を行っている。


1.3.連署就任と晩年
宝治元年(1247年)に執権時頼と外戚の安達氏らが三浦氏を滅ぼした宝治合戦において、重時の動向は不明であるが、接点のない時頼と重時の間には母方が同じ比企氏であり、高野山にいた安達景盛の介在があったと思われる。三浦氏滅亡後、50歳の重時は時頼の要請により鎌倉へ戻り、叔父時房死後に空席となっていた連署に就任し、時頼を補佐した。六波羅探題北方は次男の長時が就任した。重時の長女葛西殿は時頼の正室となり、後の8代執権北条時宗を生んだ。
建長8年(1256年)に出家し、引退後は極楽寺に隠居した。連署は弟の政村が就任した。同年執権時頼が病で出家したため、6代執権には長時が就任している。
同年、赤痢が猛威をふるい、宇都宮経綱に嫁いでいた重時の娘がこれが原因で死去している[4]。


1.4.最期
弘長元年(1261年)6月1日、重時は病に倒れた[5]。『吾妻鏡』では厠で「怪異」により「心神網然」になったとされ、以後は「瘧病」のような症状となったという。鶴岡八幡宮別当の隆弁に6月11日に加持してもらったところ、隆弁は6月22日に症状が回復すると告げた[5]。その予言通り、22日に重時は病気から回復し、6月25日に喜んだ重時や一族は隆弁に馬・南庭(銀)・剣などを贈った[5]。
それから5か月後の11月3日、極楽寺別業で病死した[5]。享年64[5](満63歳没)。死因は不明だが、6月の病が再発したともいわれる[1]。『吾妻鏡』では「発病の始めより万事を擲ち、一心に念仏す。正念に住し、終を取ると云々」と記され、熱心な念仏信者であった重時らしい最期であったという。
墓所は極楽寺で、葬儀は11月6日の寅刻(午前4時頃)に行なわれた[1]。


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