[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
1-
101-
201-
301-
401-
501-
601-
701-
801-
901-
1001-
1101-
1201-
1301-
1401-
1501-
1601-
1701-
1801-
1901-
2001-
2101-
2201-
2301-
2401-
2501-
2601-
2701-
2801-
2901-
3001-
3101-
3201-
3301-
3401-
3501-
3601-
3701-
3801-
3901-
4001-
4101-
4201-
4301-
4401-
4501-
4601-
4701-
4801-
4901-
5001-
5101-
5201-
5301-
5401-
5501-
5601-
5701-
5801-
5901-
6001-
6101-
6201-
6301-
6401-
6501-
6601-
6701-
6801-
6901-
7001-
7101-
7201-
7301-
7401-
7501-
7601-
7701-
7801-
7901-
8001-
8101-
8201-
8301-
8401-
8501-
8601-
8701-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
「まじめな話」の板
461
:
初心者
:2013/02/08(金) 09:58:10
訊け様
「観念の遊戯」発言は、本流ではなく、本流によって高く評価されている人物の
発言です。わたしも、この人物の発言ということで重く受け取っています。
いずれにしても、「実相人間は迷わない、迷ったフリもしない」という発言は、生長
の家にとってはもろ刃のつるぎにもなりかねない重要な発言であるという気が
いたしております。
どういう形にせよ、現象世界があらわれているというのは、生長の家の教えのなか
ではパラドックスであるわけですよね。このパラドックスを、「自由をあたえられた
実相人間が迷った、あるいは迷ったフリをした」とするパラドックスでどうにかこう
にかしのいできた、というのがこれまでの生長の家ではなかったかとおもうわけです。
ところが今回、生長の家は、「実相人間が迷った」とする第二のパラドックスを放棄
したわけですよね。これが意味するのは、「現象世界があらわれている」とする
第一のパラドックスに直面しなければならなくなった、ということであるはずです。
これまでは、第二のパラドックスにかくれて見過ごされがちであった第一のパラドッ
クスを徹底解明すべき時期がきた、ということではないでしょうか。
生長の家で、「迷い」ということが必要以上に語られてきたのは、第二のパラドック
スに注意を向けさせるための戦術であったはずです。
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板