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「まじめな話」の板

222さくら:2012/11/04(日) 21:17:58
初心者さま

「哲学を<脱構築>するとは,歴史的由来をもって構造化されている哲学的諸概念を用いて最も忠実かつ内在的に仕事をしながら,他方では哲学では名づけることも記述することもできないある外部の視座にたって,この哲学的諸概念の歴史が,利益がらみの抑圧をすることによってみずから歴史たらしめたさいに隠蔽しあるいは排除してきたものは何か,それを見きわめることである」(デリダ『ポジシオン』)

仮に、初心者さまが指摘される「ロゴスに陥った宗教」があり、「脱構築」という言葉が用いられるとすれば、
それこそ、言葉を突き抜けた、信仰の真髄を目指すことだとおもいます。
そのとき、初心者さまが指摘される、ロゴスの罠などとは無縁の、全く自由の世界があるということです。

いうまでもなく、宗教の悟りの世界や救済はそこにあるのではないでしょうか。

「信仰の和解」の理解も、そのことを、指しているとわたしは思っています。

ほんらいの真理の把握には、その智慧に満ちているはずです。

ある拘りの中に落ち、その外から世界をみることができない状態で「絶対信」「真の〜」などとするものがあれば、その宗教は、欺瞞を行うことになるとおもいます。


本流派のロゴス中心主義は、たしかに国家形成のロゴスに由来した古事記に始まり、ある国家的秩序(ヒエラルキー)への絶対信があるものと思われます。

雅春先生は、国家の秩序の霊的実像を悟り、理念としての日本の実相を説かれました。
そのお悟り自体にロゴス中心主義があったとは思えません。

命を生かす、宗教的悟りこそ、命の働きのソフィア的ものではないのでしょうか。
生長の家は、ほんらい、そのような教えだとおもっています。


ただ、「エクリチュールの宿命」を免れず、思想的な暴走が、ロゴス中心主義を引き起こしたものがあるとは、思っています。

信仰の和解が共有できないのも、そこにも、あると感じます。


…あとは、現象の批判ばかりです。個人のもんだいです。それだけです。














…と書いても、初心者さまは、旅へでられましたね。

さくらも一人旅が、好きです。
だれも、さくらのことを、知らない、そういう土地の空気が、好きです。

いつか、旅の途中ですれ違っても、さくらには、惚れないでくださいね、笑。
わたしも、あなたの横顔を知らんぷりして通り過ぎますから。

すれ違うなら、桜の季節が良いですね。

これから冬が来るから。

それを越えて。

道中、お気をつけて。

さくら。


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