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「まじめな話」の板
1957
:
神の子様
:2013/12/11(水) 13:17:50
縁なき衆生は度しがたし
迷いの中に苦しみ悩みながら、こちらが救けてあげたいと思うけれども、宗教とか信仰とかいうものに興味のない人がたくさんある。 このような人を救うにはどうしてあげたらよいのであろうか。
釈尊はこういう人の事を「縁なき衆生は度し難し」と仰せられた。 「度す」というのは「済度する」ことである。 実相光明世界 ― 即ち「彼岸」に度してあげたいけれども、「縁」即ち触れ合う、機会が無いということである。 肉体は互に触れ合い、目に触れてはいるけれども、「機」即ち「心のはたらき」が互に「会う」ことがないのである。 それは恰も、ラジオ放送電波は現実に今此処に到達しているけれども、放送電波と受信機との波長があわないので、いくら「善き助言」を放送してあげても、彼らは波長の合わぬラジオ・セットのようなもので、心の触れ合う機会がないのである。
では、本当に「縁なき衆生は度し難し」なのだろうか。 「縁なし」といって放置して見殺しにしておいて、よいものだろうか。 現象面では波長が異なり、肉体は触れ合っていてすらも、心は互に断絶していて互に触れることが出来ないかも知れないけれども、実相は彼らも亦 “神の子” であり、本来 “仏性” であり、彼らの生命の根元的な面に於ては互に密接に“一体”なのである。 だから彼らを救ってあげようと思えば彼らの生命の根元的な面で彼らと接触すればよいのである。 即ち、彼らの「実相」の円満完全さを心で凝視し礼拝する行事をつづけるのがよいのである。
彼らにも“実相の完全さ”が宿っているのである。 彼らの肉体は“実相”の波長には全然波長の合わない迷妄の波長を起しているために、“実相”と“肉体”との間が相互断絶していて“実相”は隠覆されて、恰も眠ったような状態になっているのである。
私たちが彼らを救わんがために、彼らの「実相」の円満完全さを凝視して礼拝するのは、その眠っている「実相」に対して、波長の合う霊波を起して「実相」を霊波で叩いて目を醒まさせて「実相」のハタラキを表面にあらわすためなのである。
実相礼拝の行事によって、恰も「縁なし」と見える衆生の仏性を目醒めしめようとせられた方が、法華経の“常不軽菩薩”なのである。 この菩薩は「われ常に軽んぜず」と唱えて、いかなる浮浪者でもヤクザでも、また彼を石をもって打擲しようとした者すらをも、「あなたの実相は“如来”でいらっしゃいます。当来必ずその如来の実相のあらわれる方であります」といって、ひたすら相手の実相たる“内在の如来”を礼拝したのである。
生長の家人の生き方は、この常不軽菩薩の生き方をすべきである。
谷口雅春師 『生長の家』誌 昭和44年12月号
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