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「まじめな話」の板

168色なき風:2012/10/14(日) 07:11:17
『人間存在の謎』


「人が存在するのは、神が人を作ったから」がそれまでの伝統だったのに対して、
デカルトが
「我考えるがゆえに我あり(私が考えるから私は存在する)」という考え方を示しました。

これがヨーロッパ近代思想の始まりでしたが、しかし良く考えれば、人は、物心つく前、母の胎内で生まれた時から存在し、
自分の力で存在するようになった訳ではありません。

親や周囲の人々に呼びかけられ、相応の面倒を見て貰わなければならない点で、「自分は愛されたから存在する」とも言えます。
動物と異なる点は、自分の名前が付けられている事、また高度な言葉でコニュニケーションがとれる事、つまり言葉で呼びかけられる、
語りかけられる存在にあるでしょう。

そうした高度な人間が、何故存在するのかは謎であり、これについて、大昔から、様々な論議が繰り返されてきました。

そして、谷口雅春先生は、分り易く説き明かして下さったわけですね。

キリスト教の話にもどりますが、
ヨハネ福音書の冒頭の哲学的言葉「初めにコトバあり。コトバは神と共にあり。コトバは神である(1:1)」 は、
こうした謎へのヨハネ学派の回答だったに違いないでしょう。

人間は感性、悟性、理性という能力を備えていると言う(哲学者カント)。
感性とは、非言語的、無意識的、直感的なものであり、美や善などの意味を知覚する能力。

悟性は、いろいろなことのつながり具合が分かる能力(日本では禅の用語、もともと知性や理解力などと同意義)。


理性は、推論する能力(或ることの理由を、とことん知ろうとする事、パスカルが言う〈人間は考える葦〉がそれに相当)。

人間は、人間の存在の意義を考えなくても生きていけますが、何故か、考えてしまうのが人間なのでは、ないでしょうか。


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