したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

男性専科 板

3893シオン観測隊・近畿隊:2019/08/01(木) 12:32:40
日野ボンの祖先・日野有光について(公式な史実です)

否定しても、否定できない、『朝敵・後南朝の家臣の子孫』それが、日野ボン(日野智貴)真の真実です。
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓


概要
日野 有光(ひの ありみつ)は、室町時代前期の公卿。藤原北家真夏流日野家、権大納言・日野資教の子。官位は従一位・権大納言。
経歴[編集]
足利義満の縁戚でありその寵愛を受け、後に娘は称光天皇の妃となった。応永24年(1417年)に院執権となり、応永28年(1421年)権大納言となるが、応永32年(1425年)に院執権と権大納言を両方辞し、出家して祐光と号す。
応永34年(1427年)に足利義持と日野家の確執が原因で室町殿より追放[1]され、続いて称光天皇が男子を残さずに没して皇統が伏見宮系統に移ると、政治的に不遇となった。有光は所領没収となり、家督と所領は有光の弟秀光が代わって継いだが、永享4年(1432年)に彼は死去し、日野流に属する広橋家の広橋兼郷の子の春龍丸が跡を継いだ。しかし春龍丸もその年のうちに死去し、結局日野家の家督と所領は兼郷に与えられ、兼郷は一時「日野中納言」を名乗っている。
失意の中にいた有光は南朝復興を目指す後南朝と結んで、嘉吉3年(1443年)の嘉吉の乱の後の京都の動揺に乗じ、9月23日、通蔵主、金蔵主、尊秀王、日野資光、有光らは伊勢楠木氏の楠木正威らに数百人の兵と京都に乱入(禁闕の変)、御所から三種の神器のうち神璽と宝剣を奪い、後醍醐天皇の先例を模して比叡山に逃れ、根本中堂に立て籠った。しかし畠山持国らに攻められ、有光と金蔵主は討ち死にした。子の資親は捉えられ、六条河原で斬罪にされた。
天皇家や将軍家と姻戚関係にあった日野家は、これで一旦断絶する。



1443年(嘉吉3年)9月には、南朝復興を唱える日野家嫡流の日野有光らの勢力が後花園天皇の暗殺を企てて御所に乱入(暗殺は未遂)、三種の神器のうち剣と神璽を奪い、南朝皇族の通蔵主・金蔵主兄弟(後亀山の弟の孫)を担いで比叡山に逃れる“禁闕の変”を起こした。幕府は数日のうちにこの変を鎮圧し、通蔵主・金蔵主・日野有光ら首謀者をことごとく殺害した。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板