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【ひとりごと板】

1054初心者:2012/10/17(水) 14:53:49
さくらちゃんへ

>これが本当の「名前」だと呼べる様な名前は、真実の名前ではない。
天地が創られた時には名前などは存在せず、万物が生み出された後にそれらは勝手に名づけられたのだ。
だから無欲な心をもって見れば、“名前に左右されない”物事の本当の姿を人は見る事ができるだろう。
欲望の心のままでは、人は物事の上辺の姿しか見る事ができない。名前に左右されてしまう。

老荘思想では「語られるものはタオではない」といわれていますね。「語りえぬ
タオ」こそが真実のタオであるといわれていますね。

「語られる」というのは「言い当てられた」という意味であるはずです。「言い当て
られたものは真理ではない」とでもいうべき考え方が、老荘思想の根本にはある
ようにおもわれます。

言葉で語られるとはどういうことなのでしょう。それは、言葉によって名づけられる
ということなのですね。ソシュール的には、すべての事物は名づけられることで
存在を開始します。名づけられる以前に存在はなく、そこにあるのは事物と事物の
関係だけ、と考えます。事物と事物を分け隔てる関係性が名づけられることで、
すべての事物がその存在を開始するというのがソシュールの考え方ですね。

「言い当てられたもの」とは、ソシュール的には、「言い当てられたことで存在を
開始したもの」ということになります。言い当てられるまでは、それは存在しなかっ
たと考えます。言葉いぜんにすでに存在していた「なにか」が言い当てられたので
なく、言葉いぜんには存在しなかった「なにか」が言い当てられたために、その
「なにか」が存在を開始したと考えるのがソシュールの発想です。

もしも真理が言い当てられたとすれば、その真理は言い当てられたことで存在を
開始した真理ということになります。言い当てられたことで存在を開始した真理は
ほんとうの真理ではない。「語られるものはタオではない」の表現で老荘思想が
いわんとしているのは、「語られるタオ」とは語られたことで存在を開始したタオで
しかない、ということになりますね。

>この世は、すべてが1つの同じ根源存在から創られたのに、陰と陽という2つの別々の名前を持っている。
その1つなる根源存在を「深遠なる神秘」と私は名づけたが、その神秘(玄)もやはり別の神秘からこの世の全ては生み出されている。これが、この世の万物が生まれ出る門です。 」

幽玄とは、もともとが老荘思想からきた言葉ですよね。神秘的ななにものかが湧き
でてくる。幽玄にはこうしたイメージがあります。

本物の宇宙のさらに奥には、デイヴィッド・ボームが「純粋可能性の領域」と名づけ
た神秘の領域があり、さらにその奥には別の神秘ともいえる「直観知性の領域」が
あると考えられます。

以上のごとく名づけられているということは、本物の宇宙論がロゴス中心主義で
あることの、なによりの証拠ということになるでありましょうね。


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