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生長の家傍流掲示板/別板1
304
:
初心者
:2012/10/14(日) 09:17:40
さくらちゃんへ
おそらく総裁は、いまだ体系化はなされていないにしても、確固たる思想性を
その内面に築いておられることでしょう。その思想性の形成過程で、本流の思想が
果たした役割とはなんであったか、このことを、これまでよりさらに踏み込んで
捉えなくてはならない時期にさしかかっているという気がいたします。
本流はしかし、総裁の内面で培われた思想性がなんであるかには気づいていない
はずです。ただ「ちがうもの」、「あってはならないもの」、「駆逐すべきもの」との
感覚がはたらいていて、それが「虚説」という表現になって表出されているものと
考えられます。
わたしはじつは、本流の掲示板で書き込みをはじめたころまでは、総裁こそは
近代主義を体現する人物であり、本流はそれに対抗しようとする勢力であると
思い込んでおりました。しかし、しばらくして、それはまったく逆の認識であった
ことに気づかされました。
本流こそが近代主義の体現者であり、総裁はその対抗勢力と考えたほうが、現状
をうまく説明できる気がするのですよね。総裁は、一見すると近代主義的な言説
に依存しておられるように感じられますが、それはむしろ、本流の近代主義的思考
に、おなじ土俵で対抗するための手段であり、洗練された手法でもあると考えた
ほうがずっとわかりやすいとおもえるようになったのですね。
近代主義の思想をひと言でいえば、自然にたいする「支配の論理」であり「収奪の
論理」であると考えますが、こうした論理に、総裁と本流、どちらが近いかと考えれ
ば、わたしが述べていることの意味はわかっていただけるとおもいます。
おそらく総裁には、のちに本流と自称するようになる人々の言動をとおして日々
接しなくてはならなかった「支配の論理」と「収奪の論理」への違和感があった
のでしょう。むろんこうした違和感は無意識的なものであったのでしょうけれど、
それが今ある思想性を形成する原動力になったと考えることもできる、ということ
です。いささか強引ではありますが、まずはたたき台として、こうした観点から
今おきている問題の深層を捉えてみたいところですね。
ところで「神の摂理」ですが、この表現を心ならずももちいたために、ある方から
批判を受けてしまいました。やはり使いなれない言葉はもちいないほうがよいですね。
これに代わる言葉としてわたしがもちいるのが「オートポイエーシス」です。超越的
ななにかをこの世にあらわす仕組み。オートポイエーシスにこうした意味合いを
持たせることがあるということを、ひとまずは了解しておいてください。
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