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生長の家傍流掲示板/別板1

1797トキ:2014/10/31(金) 20:39:27
高裁判決中の日本教文社側の主張に、こういうものがあります。

>>ウ 被控訴人〔生長の家社会事業団〕は,昭和21年に亡雅春〔谷口雅春先生〕の寄附行為により設立された財団法人であるが,その設立の趣意書には,出版事業に関する項目は一切挙げられていない。これは,出版事業は,専ら控訴人〔日本教文社〕に委ね,被控訴人〔生長の家社会事業団〕はその印税収入をもって社会厚生事業を推進するという役割分担がされていたからである。

     被控訴人〔生長の家社会事業団〕にとって,控訴人〔日本教文社〕が「生命の實相」等本件書籍を恒久的に出版するために設立されたことは自明のことであり,被控訴人〔生長の家社会事業団〕が,控訴人〔日本教文社〕と生長の家を排除し,直接出版に関与することは,被控訴人〔生長の家社会事業団〕の設立以来長年にわたり継続されてきた控訴人〔日本教文社〕と被控訴人〔生長の家社会事業団〕との役割分担関係を破綻させるものであり,設立者たる亡雅春〔谷口雅春先生〕の意思に反し許されない。

 個人的に言えば、この下りはそれほど奇想天外なものだとは感じません。もちろん、法律上の視点では意味がない
ものですが、契約書以外にも、教団と生長の家社会事業団の間には、ある種の慣習や伝統があった、という教団側の
意見は、信徒としては、納得できる部分があります。

 客観的に考えると、谷口雅春先生は、聖典が教団とは直接関係のない会社により出版される事態は望んでおられな
かったと拝察します。

 しかし、裁判所があっさりとこれを認めなかったのは、教団側が、そのような慣習や伝統の存在を立証できなかった
という点に加えて、教団内の伝統や慣習を無視する言動を繰り返して来た現在の総裁に反発する人達が、教団側の立証
に協力しなかった、という点も原因にあると思います。

 失礼な言い方ですが、再三、生長の家の伝統や慣習を無視する言動を繰り返して来た指導部が、自分が都合が悪くな
ると、伝統や慣習を持ち出すのは、御都合主義という印象は確かにあります。

 しかし、同時に、教団側の言い分にも、ある程度の根拠はあるとも感じます。

(つづく)


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