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生長の家傍流掲示板/別板1

114初心者:2012/08/01(水) 10:57:16
絶対的信を確立するとは、世界にたいする見方や解釈の仕方を、ただひとつ
の見方や解釈に固定するってことのようですね。固定された見方や解釈だけで
世界を理解しようとするってことのようです。はたしてこれで、ほんとうにうまく
行くのでしょうか。

世界は流動的であるようにおもえます。真理の相も、けっしてひとつの相に
固定されるのではなく、千変万化して流動しているかのように、わたしには
感じられます。流動する世界、流動する真理を、絶対的信によって固定された
ただひとつの見方や解釈で捉えきれるものなのか、わたしははなはだしく
疑問に感じます。

初心とは、なによりも流動する心であり、予期されぬ心のことです。信を固定する
とは、初心とは正反対の「確実に予期される心」になるということでもあるようです。

こちらが問いかけても、答えずに逃げるということは確実に予期されます。これ
以外には何も起きません。その心理状態も手に取るように知ることができるかの
ようです。発言の内容もすべてが予想の範囲内に収まってます。信を確立した人の
言動に、新味性や意外性はまったく感じられません。

絶対的信を確立した人が理解できる範囲は格段にせばまるはずです。とうぜんの
ことに、理解できない部分の比重は大きくなります。信を確立した人は、自分が
理解できる範囲を「実相覚」と呼び、それ以外の理解できない部分を「人間知」と
呼んでカテゴリー化することで、理解できる範囲のせまさを正当化しているよう
にもおもえます。

絶対的信を確立した人は、理解できない範囲を拡大させてしまったことで、世界を
語る言葉を持てなくなってます。世界を語ろうとしても、具体的なことは何も語れ
ないので、大言壮語することで、自分は何もかも知っているのだとするポーズを
とるようになります。こうしたことも、すべてが予想の範囲内に収まってますね。

世界や真理がもしも流動的であれば、なおさら手の打ちようがなくなります。大言
壮語することで、自分は何もかもわかっているのだと、自分にも他者にも思わせる
よりほかはなくなります。


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