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第7章
1
:
YS
:2012/10/15(月) 16:32:57
例のごとく、前半(pp. 169-183)までしか読解しておりませんので、
この範囲内でとりあえず話をさせていただきます。
今回、最もよくわからなかったのが、p. 170の時間と空間の対比の箇所でした。
時間が、変化の尺度になる以上、あるいは運動量のひとつの測定基準を与えている以上
変化の象徴のように位置づけられるのは、よくわかります。
ただ、こうかんがえると、結局、空間も運動や変化の基準(たとえば距離等)を与えており
この点で、時間とそんなにスッキリ分けられるものでもないではないか、という疑問が生じました。
ここはユークリッド幾何学のようなものを連想して、幾何学=客観的かつ空間を測定する学という
図式から理解すればいいのかしら?
古代・中世哲学について素人なので、稚拙な疑問すみませぬ。
p. 174の議論はおもしろい問題ですよね。
人間性や性格の「よさ」と、道具などの「よさ」は違っているにもかかわらず、
理屈だけでそれを証明するのが難しいというのは、おもしろい問題だと思いました。
2
:
YS
:2012/10/19(金) 14:06:17
後半もやっと(!)読了できましたので、それにかんする疑問等を記述いたします。
まずは全体的な印象についてですが、アベラールの作品に焦点をあてることで、
哲学と信仰の関係(神学)をえぐり出そうと試みた章であったと思います。
さらにこの問題に、唯名論と実在論の関係が絡まっております。
おもしろかったのは、論争を本質とするヨーロッパ哲学の淵源を、二元論、
さらには魂の輪廻説にみいだそうと試みている点です。
魂と身体が分かれている以上、
魂の鍛錬には、この鍛錬固有の修練をつまねばならない。
そしてその鍛錬固有の修練が論争であるのだから、哲学は論争を本質とすることで、
魂を鍛えなければならない、と。
なぜ、魂の鍛錬として論争が選ばれているのか、この理由にかんしては
「日常会話」(p. 195)からの延長が指摘されておりますが、どうもこれでは納得できませんでした。
著者の立場では一般民衆に受けいられることを哲学が重視したので、一般民衆のおこなう
日常の会話とのつながりを強調したかったので、日常会話の重要性を指摘したのでしょうが、
この日常会話と哲学上の論争はそんなにもすんなり直線上に置かれることができるのか、あまり
ピンときませんでした。
3
:
YS
:2012/10/19(金) 14:11:44
それと、ヨーロッパの二元論に対比されるかたちで、日本人の一元論が指摘されておりましたが、
たとえば、頭をよくしようとか、精神的に優れた人間になろうする者がいたとして、
そしてこの者が日本人であった場合、この者は相撲の稽古を選ぶのでしょうか?
逆にいえば、身体的に強くなろうとして、学校の勉強をがんばろうとするのでしょうか?
それを疑問に思うのは、すでに西洋思想が輸入された後の日本人だからだ、と著者から反論されてしまうかもですが、
現代だろうが、古代だろうが、中世だろうが、体を鍛えるために書物を読むとか、
知識を増やすために筋肉トレーニングに精を出す人を想定するのは困難です。
上記の疑問は極論に支えられた疑問ですので、想定された状況がおかしいということになるでしょうが、
しかし哲学が屁理屈につきあわなければならないとしたら、極論だろうが、この疑問も
一定の正統性をもつはずです。
ORさんなら、上記の疑問群に、どのような返答を試みますか?
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