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第4章
6
:
YS
:2012/07/18(水) 00:15:03
>数に関する学問がないと何もはじまらない、ということだと思います。
デカルトも(若い頃限定?)おなじかんがえをもっていたようですね。
筑摩の新書で数学の入門書が公刊されたし、すこし腰を据えて数学やってみようかしら・・・
むしろやってないで、哲学の研究がやれてる現状というか、自分自身におおきな穴があるような
気がしてきました・・・
>幾何学の扱いがどうなのかちょっと注意して眺めてみたいですね
リン・ホワイトの説明の仕方だと、装置の作成=手仕事=プラクシスで劣った仕事であるのにたいして、
思考はやはり上位(最上位?)に位置づけられており、この上位の仕事に従事するものが装置の作成に
手をだしたのがマジギレの原因(思考を汚した)らしいのですが。
しかしこの当時、すでに幾何学の証明にも技術をひつようとする場合があったにもかかわらず、いってみれば
技術に依存している学問が存在していたにもかかわらず、そこに明瞭な差別的区分を設けるその立ち位置とい
うのが気になった次第です。
>原語ではaletheia(真実)とousia(実在)
ハイデガーの『存在と時間』の冒頭を思い出しちゃった・・・w
なるほど、そういう意図のもとで真実在という訳語ができたのですか。これはいいマメ知識をいただきました、感謝!
前に話題になった、「世話をする」という言葉を遡ると、牛の世話やらおべっか使いという意味にまで遡れるのと同様、
アレーティアもレーティアの否定という造語で、レーティアって、忘却って言葉と関連しているのですよね?・・・たしか・・・w
ギリシャ神話だと黄泉へいくという発想なのでしょうが、プラトン的発想―あるいはその同時代人たち?―だと黄泉(イ
デア国)から現象界へ来ているという発想なのでしょうかね?それとも、ギリシャ神話でもレーテの河って、いくだけではなくて
そっちからこちらへやってくるというイメージも象徴化されていたのでしょうか?
しかしさすが古代・中世の議論だな。
近現代に比べると、たしかにとっつきづらいな・・・w
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