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長者の峠
1
:
名無しさん
:2012/10/06(土) 20:11:11
――悟りは と、筆者が努力人だけに他人事ならず思うせいでもあったが、悟りと修行を筆者はやりたいことであるだけに、それが何を知りたいと思うのである。
修行をする前、こういうことを考えていたらしい。
2
:
名無しさん
:2012/10/06(土) 20:11:42
悟りは意識だけにこだわらず、自分が何者かを突き止めるようなところがある。
筆者は、悟りについては図書館やネットで調べただけの知識だが、悟りと修行のふたつの大きな戦いがあることを知っている。
3
:
名無しさん
:2012/10/06(土) 20:12:13
どちらも菩薩者としては精神の苦痛をともなう戦いである。
筆者は出家こそ出来なかったとはいえ、在家修行は誠実に努力を続けた。
なれない座禅を懸命にし、時に心の中に潜む悪魔と出会った。
4
:
名無しさん
:2012/10/10(水) 18:18:36
――ともかくも「無」からはじめたい。
と、筆者はこれからも「無」を繰り返す。
ただし、と筆者は言う。バカのひとつ覚え、と言う意味ではない。
誤解なきように。悟りについて、「無」が大切とわかってもらえばいいのだ、と言った。
5
:
名無しさん
:2012/10/10(水) 18:19:16
悟りは「無」だけではなく、いくつかあるが、しかしそれらはひとつに統一しており、さらにその上に「大悟」があって、ようやく本当の悟りに達する。
雲水にとって、雲の上の存在なのである。
6
:
名無しさん
:2012/10/10(水) 18:20:17
心の中では、異常な煩悩が支配している。
修行しているうちに、妄想がどう曲がってどんんな空虚が奔るかわからない。
直に修行してみろ、筆者は言った。
いつの間にか、自分が何者かがわかってくる。
7
:
名無しさん
:2012/10/10(水) 20:19:05
お寺では入門後、1週間只ひたすら座禅からはじまる。
「無」は自分で監督し、何も考えないようにする。
最初の苦痛が「無」になれなく疲れる。
筆者はマジメな男でそれでも「無」になろうとした。
8
:
名無しさん
:2012/10/10(水) 20:19:45
座禅は座ると同様、無理に「無」になろうと努力する必要はない。
まだ「無」にならぬと、妄想が消え、また現れる。
まずは座禅をしてみて、「無」になるのを待つ。
次いで、心の中を覗き、判断せず自分を観察する。
9
:
名無しさん
:2012/10/10(水) 20:20:33
座禅は普通「無」なろうとするのに、やがて「無」になるのを待つのは不審と思うであろう。
筆者は首を捻った。
筆者のマジメさは比類ないものであったが、修行の上達の速さは、ひたすら「無」になろうとしたこと
、と、察した。
10
:
名無しさん
:2012/10/10(水) 20:21:12
「無」と言う聖域とも言うべき境地に入ったのであろう。
そのため筆者は、悟りの入り口にまで迫り、悟りを開いたに違いない。
ひたすら「無」からはじめた事が、努力して「無」にならなくていい、と気付いた。
11
:
名無しさん
:2013/02/09(土) 19:13:31
雲水はいずれ自分と決着をつけたいと見、悟りを開きたいと考えていたが、やがて悟りがゴールではないと気付き、気楽に修行をはじめた。
12
:
名無しさん
:2013/02/09(土) 19:14:01
余談ではあるが、雲水とは、悟りの修行僧のことである。
13
:
名無しさん
:2013/02/09(土) 19:14:47
私どもが悟りに興味を持ったときは、スーパーマンのような超人と思っている。
世の中のすべてが見えていて、心は透き通っていて、それだけに本当の強さを知っていて、仙人のような者だと思っている。
14
:
名無しさん
:2013/02/09(土) 19:15:24
やがて修行をし、仏の道を勉強し、2年3年経つと、そんな者はどこにもいないことに気付く。
悟りは仙人でも超人でもなくて、普通の者とまったく変わらない。
ただし、「まったく変わらない」と「大きく変わる」は、同じ意味である。
これが悟りである。
15
:
名無しさん
:2013/02/09(土) 19:15:54
境地を中景として、座禅をしたとき、時にして「究極の境地」に達する。
筆者は、修行をはじめて2年経ったとき、この究極の境地に達したが、伝承によると、これは悟りではないらしい。
16
:
名無しさん
:2013/02/09(土) 19:16:33
たしかに、通常の境地より、むしろ解脱を感じさせるやさしさを持った境地であった。
実はこれが解脱なのか、あるいは、すべての煩悩から解放した感覚が反映したのか、そのあたりは推測するよりほかない。
17
:
名無しさん
:2013/02/09(土) 19:17:08
筆者は、足を組んで、ゆっくりと座禅をはじめた。
境地に入った筆者は、変に「無」になろうとせず、自分に成り切った。
この境地に身を投じて、無意識に妄想し、無理に違う自分を演じないためであった。
18
:
名無しさん
:2013/04/18(木) 18:41:01
筆者の修行はまだ浅いが、すでに悟りを開いている。
悟りの修行は、悟りを開きたいと思う心も捨てなければならないから、1年ほど前に目覚めた体験を「悟り」としているのである。
これならば、捨てているのと同じであろう。
19
:
名無しさん
:2013/04/18(木) 18:41:36
――今の音を聞く。
筆者はこの修行法を疑ったが、今では重要な修行と思っている。
修行法はいろいろあるが、今の音を聞くことは、自分が宇宙の一部との感覚を持てる。
20
:
名無しさん
:2013/04/18(木) 18:42:16
今の音を聞いて、悟りを感じるのは最初だけである。
ところが、それが途方もなく、自分が宇宙の一部だと感じるのである。
公園で禅をしていれば、自分が公園の一部になったように思い、同時に
「修行を重ねれば、俺もお釈迦さんのように宇宙を感じることが出来る」
と、喜ぶのである。
21
:
名無しさん
:2013/04/18(木) 18:43:12
ここで、ツイ此間知った、悟りの知識について語りたい。
最初に執着心を捨てる。
人を押しのけて物事をせず、また服装なども奇抜なものを好まない。
「悟りを開きたい気持ちも執着心ではないのか?」
と、初心者に聞かれることもしばしばである。
22
:
名無しさん
:2013/04/18(木) 18:43:56
そういうとき
「悟りたい気持ちも捨てる」
と、道元が言った言葉を用いる。
初心者からすれば、都合の悪い事を避けて、道元の威を狩っているように聞こえるであろう。
――口先三寸だ。
と、初心者は思ったりする。
23
:
名無しさん
:2013/04/18(木) 18:44:40
確かに菩薩者は
「悟りたい気持ち」を捨てた方が都合が良かった。
自分の好みに解釈して、日常営々と、修行を怠ける条件にできる。
「道元も言った通り、悟りなど求めてはいけないのだ」
要するに、人には生活があるため、職業坊主になるのである。
24
:
名無しさん
:2013/04/18(木) 18:45:22
悟りたい気持ちも捨てるのは、執着心を捨て去ってからである。
この境地にたどり着くのは何もかも捨てる覚悟が必要であった。
執着心や環境、菩薩心も捨てなければならない。
最後には信仰する仏教も捨てる必要があった。
ここまでの境地にたどり着いた者が歴史上どれだけいたのであろう。
25
:
名無しさん
:2013/05/08(水) 22:04:21
黒田官兵衛という男がいる。
秀吉の天下に貢献した名参謀である。
難航した播磨攻略に成功し、大小様々な豪族を次々に味方に取り入れた。
しかも、人質からの生還はよほど運が強かったといえる。
26
:
名無しさん
:2013/05/08(水) 22:05:05
官兵衛は欲がない男と言ってよく、見返りをもとめない男であった。
官兵衛は、意外と他の大名に知られていない。
資料にもあまり残っていなくて、けれども、秀吉から
「次に天下を取るとしたら官兵衛」
だと言われている。
27
:
名無しさん
:2013/05/08(水) 22:05:46
実は最期、官兵衛は天下を狙った。
官兵衛は今の大分の中津に居た。
節約家で、その財産を処分して三千の軍勢を作った。
欲というよりも、むしろ自分の知恵を試したかった。
その後、家康が1日で関ヶ原に勝利すると、あっさりと天下をあきらめた。
28
:
名無しさん
:2013/05/08(水) 22:06:27
官兵衛は、他国を攻めると、それに勝利し、三千から七千に軍勢を増やした。
その後、大友に攻めて、七千から1万二千に軍勢を増やしている。
ここまでの話を聞くと、天下を狙っているように思えるが、そうではない。
29
:
名無しさん
:2013/05/08(水) 22:07:04
官兵衛の生涯は、けして前に出ず、冷静に行動し、しかも大胆な攻めをしている。
官兵衛は、テレビゲームをするような気安さで戦い、同時に楽しむことができる。
30
:
名無しさん
:2013/05/08(水) 22:07:39
官兵衛を見て思うことは、欲がないから知恵が生まれるということだ。
それは悟りに共通している。
人には欲があるが、欲が知恵を遠ざけている。
31
:
名無しさん
:2013/05/08(水) 22:08:20
欲というものは、洗濯枝を減らしているのである。
知恵は、100人いれば100人とも違う。
つまり、知恵を、よりいきいきと効果的に、鋭く、生々しく出すには無欲でなければならない。
32
:
名無しさん
:2013/05/08(水) 22:08:54
官兵衛には欲がなかった。
欲がなくて知恵だけがあった。
知恵のない者は生きている屍に過ぎない。
33
:
名無しさん
:2013/06/30(日) 17:51:26
「ありのまま」を追求するうちに、不意に、「流れのまま」を思い出した。
悟り修行において「ありのまま」という表現はするが、「流れのまま」という表現は、あまりしない。
34
:
名無しさん
:2013/06/30(日) 17:52:00
べつに「流れのまま」を否定したわけではなく、世間の者は、勘違いしている。
悟りの議論をしているときに
「流れのまま身をまかせていれば大変な事になる」
と言った者がいた。
35
:
名無しさん
:2013/06/30(日) 17:52:47
なるほど。流れのままに身をまかせば、判断すべきところで判断せず、大事に至るであろう。
筆者はこれに対し
「悟りを開けば、流れのまま、無理なく答えが出る」
と反論している。
36
:
名無しさん
:2013/06/30(日) 17:54:17
悟りの空虚は
「流れのまま、無理なく答えが出る」
そんなものは存在しないと、知ることにある。
悟りを開いた者を、知恵者とか賢者とかいう。
もし、かれらがそうなら、脳を30%以上使っていることになる。
37
:
名無しさん
:2013/06/30(日) 17:55:04
そうなると、脳科学を否定している。
そんなことはあり得ない。
脳科学では、脳を30%以上使用できると、何かが起きると言われている。
なるほど。
イエスキリストや麻原彰晃は、脳を30%以上使用出来たからこそ奇跡を起こした。
38
:
名無しさん
:2013/06/30(日) 18:05:18
悟りを開いた者は、知恵者や賢者で、このあたりは何かがある。
――悟りを開くには、人より物事を考えなければならない。
と、筆者は主張する。
39
:
名無しさん
:2013/06/30(日) 18:05:57
矛盾しているが、しかし、流れのまま、無理なく答えを出すことはできない。
その矛盾こそが悟りである。
不可能なことを不可能と知るものの、矛盾の中で修行することが悟りである。
40
:
名無しさん
:2013/06/30(日) 18:06:45
悟りには、【悟りを開く】【悟りを得る】がある。
筆者は以前
【悟りを得る】は、座右の銘のようなものだと言った。
【悟りを得る】は、本当の自分を知ることで、人生を無理なく生きることが出来る。
41
:
名無しさん
:2013/06/30(日) 18:07:27
本当の自分を知ることで、無理なく答えが出せる。
「流れのまま」は、そういう意味である。
矛盾しているが、ちゃんと答えになっているのが悟りである。
42
:
名無しさん
:2013/06/30(日) 18:08:11
今度は「ありのまま」を話したい。
1年ほど前、悟りを開いた者の見ている風景は、「ありのままの世界」らしい。
なるほど、りんごの木の果実を見て、これはりんごだ、ということである。
43
:
名無しさん
:2013/06/30(日) 18:08:47
座禅して、境地に入ると、自分に成りきっていて、「ありのまま」は欠かせない。
カタギから見ればバカな話だと思うであろう。
あるのは、本当の自分だけなのである。
みな、環境によっての自分が、本当の自分だと思っている。
44
:
名無しさん
:2013/06/30(日) 18:09:38
――人には司令塔がある。
司令塔の周囲に、思考と言う参謀がいる。
司令塔が自分を動かしている。
思考という参謀の話を聞いて、司令塔が判断する。
座禅をしていると、参謀達が好き勝手に話していて、自分の中にいろんな人格がいる事がわかる。
45
:
名無しさん
:2013/06/30(日) 18:10:22
会社にも参謀がいる。
その中に意思決定機関がある。
正直なところ、名参謀がいれば、会社は動くという感じである。
オカシナことに、社長のいうことより、意思決定機関が優先されるのが会社である。
46
:
名無しさん
:2013/06/30(日) 18:11:06
これが無能な参謀達であればどうだろう。
終いには、意思決定機関に潰される。
――俺の会社は、こんな無能な者達で朽ちるのか。
という、得体も知れぬ不安を感じるはずである。
47
:
名無しさん
:2013/06/30(日) 18:11:43
要するに、組織の社長が司令塔である。
司令塔が本当の自分である。
人は、思考という意思決定機関がどういう決定を出すかは予測できない。
48
:
名無しさん
:2013/07/06(土) 18:44:33
本当の自分は、思考によって埋もれてしまっている。
本当に自分に会える手段が、座禅であり、それを「ありのまま」と言った。
49
:
名無しさん
:2013/07/06(土) 18:45:24
たしかに、人は思考という参謀だけで生きていける。
が、たしかなモノが確かでない世の中になってきている。
本当の自分は何か
ということは、自己究明という立場で、むろんそれも悟りであることを考えてゆきたい。
50
:
名無しさん
:2013/07/06(土) 18:46:10
次は、その「思考という参謀」について語りたい。
人は、参謀と一緒に考えていかねばならない。
「本当の自分」と語ったものの、それでは生きる屍になる、と、思い、あえて筆を持つことにした。
51
:
名無しさん
:2013/07/06(土) 18:46:42
筆者は、座禅を通じて、「無」というものに疑問を持ち続けていた。
そう思ったのは、修行の中で、ひたすら「無」になるのは、思考を奪ってしまう
という気持ちだった。
52
:
名無しさん
:2013/07/06(土) 18:47:15
座禅は、不思議な世界である。
これほど何もない世界で、これほど奥が深いモノはないが、ひそかに、廃人になることが悟りなのか
と、疑問を持ち続けていた。
53
:
名無しさん
:2013/07/06(土) 18:47:50
単純で、簡単なゲームの博打は、信じられないくらい奥が深い。
筆者は、ずっと平等な確率のゲームと思っていた。
ところが、空気を読み合い、相手を観察しなければならない。
どうやら、博打は、悟りに通じるようである。
54
:
名無しさん
:2013/07/06(土) 18:48:35
悟りとは輝かしいものだ。
その輝しさを手にいれたとき、人にどういう作用をモタラスのか。
悟りとは、知恵である。
博打打ちに言わせれば、博打に勝つには、それこそ24時間バクチのことを考えなければいけないという。
知恵とは、そういうモノである。
55
:
名無しさん
:2013/07/06(土) 18:49:27
モノを考えるというのは知恵も身に付けることであるが、時には、妙な方向に陥ることがある。
人はそれを恐れた。
特に、嫌な事を考えるのは、めんどくさく、避ける傾向があると言われる。
56
:
名無しさん
:2013/07/06(土) 18:50:37
悟りの修行も、妙な方向に陥ることがある。
悟りの修行は、「暗闇をまっしぐら」と言われ、師匠も黙って弟子を見ているほかない。
その危難を救うのはやはり自分であり、考え、師匠に頼み込んで、ヒントをもらうのである。
57
:
名無しさん
:2013/07/06(土) 18:51:31
筆者が辿り着いた結論は、座禅でひたすら「無」になるのも、考え抜き「知恵」を身に付けるのも、そう変わりはない。
【悟りを得る】という意味であろう。
「思考という参謀」を磨き、育て上げるのは自分であるにちがいない。
58
:
名無しさん
:2013/07/06(土) 19:01:16
次は、悟りと知恵の関係について触れたい。
59
:
名無しさん
:2013/07/06(土) 19:02:51
悟り修行は、「無」に徹して、自分に成り切らなければならないが、筆者は、必死にモノを考える癖をつけた。
修行というのは、仕事、娯楽の時間ではなく、むしろ筆者の場合、クラブ活動のようなモノかもしれない。
60
:
名無しさん
:2013/07/06(土) 19:03:27
げんに、筆者のような在家修行をしている者は多く、弁護士のかたはら修行している者もいるほどで、その勇姿には、悟りたい目標がある。
61
:
名無しさん
:2013/07/06(土) 19:04:04
「モノを考える癖をつけた」というのは、修行に疑問を感じたからである。
やはり、人はモノを考え続けなければ、廃人になるにちがいない。
62
:
名無しさん
:2013/07/06(土) 19:05:29
そういう時期に、モノを考える癖をつけるのは、覚悟が要った。
修行は「無」に徹するモノだ。
モノを考えることは、修行の本質を覆すことで、革命でもあった。
完璧な「無」ほどの、完璧な悟りはないからである。
63
:
名無しさん
:2013/07/06(土) 19:06:13
モノを考え続けなければ、廃人になる。
そう考えたとき、「公案」を思い出した。
公案とは、師匠が弟子に出す、なぞなぞのような問題で、柔軟にモノを考える修行である。
64
:
名無しさん
:2014/06/28(土) 19:12:19
久々にこのスレに書き込むのだが、悟りほど単純かつ複雑なものは無いのではないか。
悟りを語ろうとすればするほど遠ざかる。
遠ざかる以上、複雑と考えられる。
もし、悟りが複雑なものであれば、理論も語れるはずである。
しかし語れない。
単純すぎて語れないのである。
65
:
名無しさん
:2014/07/08(火) 18:37:51
筆者はふと思った。
修行を続け、境地の中は天国と考えていたが、ふと地獄に感じた。
どういうことであろう。
今、現在進行形で見ているものは自分の価値が生み出したもので、状況が変わると見え方も変わるようである。
筆者が今の境地を天国に思えたのは、信じた道を進んでいたことで、すこしでも亀裂が入ると次元が変わり地獄にも見えたりするものらしい。
66
:
名無しさん
:2014/07/08(火) 18:38:42
それでは天国とはなにか。
文献を見ると、なにも無いところらしい。
何もないところだが、煩悩も快感もない。
実のところ、煩悩にも快感にも縛られていない境地が天国である。
実際に、空海が話したことではないが、文献の物語で
「私は天国という国で、地獄という家に住んでいる」
と、語っている。
一見、矛盾と妄想に相違いないという発言だが、その旨を見ると奥が深い。
天国と地獄は紙一重なのである。
67
:
名無しさん
:2014/07/08(火) 18:52:37
悟りは言葉で表せるものではない。
むろん神様もそうである。
しかし、日本の高僧達は仏像を作った。
銅像を作るならともかく、神様の姿を作るのは大きなリスクがつきまとう。
さらにいまひとつの憂いは、偏った境地を生み兼ねない。
悟りは人の心の中にある。
神様も人の心の中に住んでいると言われている。
人の心の中を映すことはできない。
つまり、いくら仏像を作っても、正しき究極の境地の方角に向かうとはかぎらないのだ。
悟りを開くにはひたすら座禅をし、修行に励み、自分に成りきらなければいけない。
直感に耳を傾け、悟りとはなにかと自問自答する。
自分で自分に習うことによって、本当の自分を見つけることになる。
仏像は悟りと人を繋ぐパイプ役かもしれない。
しかし、本当の神様や悟った者の姿ではない。
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