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業務連絡 3
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たてました。
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では上弦の月、下弦の月、新月はどう理解したら良いの
か。光と闇の対立なのか?ここのところがよく分からな
かったので、浄化は基本的には満月浄化と太陽浄化の二
本立ててやっておりました。
昨晩改めて考えてみましたら、月の影の部分って、光と
闇ではなくて、目に見える部分と存在するけれども目に
見えない部分を象徴してるんですね。
即ち上弦、下弦の月は霊肉一如の象徴だと捉えることが
出来るのです。
従いまして新月は、目には見えないけれども目に見える
世界を成り立たせているエネルギーの象徴と捉えること
が出来ます。
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このように理解が整いましたので今後は浄化の効率、精
度、深度が一層向上してゆく事と思われます。
月の光の浄化で過去の意識の浄化が可能なのか?という
ご質問を、以前頂いてそのままになっておりました。
この件はまだ私自身が検証中です、というか、チョロリ
とやってみた程度であまり過去の意識の浄化まで進んで
いないのでまだ結論を出せないのです。
しかし今のところは多分効率的な浄化が可能であろうと
いう感触・見通しでおります。
意識の浄化にご関心のある皆さんは是非月の浄化を体感
してみて下さい。
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>527
おこなの?おこなの?
昨日昼寝するときに(日曜の夜はあまり良く眠れなかっ
たのです。そして私は夜は忙しいのですが昼間は少し時
間があります)心の中で「尾籠(おこ)。尾籠(おこ)」
って言葉が起こってくるんですよ。それで、「なんでお
こなの?めこじゃだめなの?めこじゃだめなの」って返
してたんですけど、犯人は貴方だったんですね。
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こんばんは。
業務連絡1番スレ>125
人間がなぜ死後の世界語れるのか。それは本来はあり得
ない
なぜ語れるかは簡単です。少なからぬ人がちゃんと覚え
ていたり、思い出したり、死後の世界に住む住人達と通
信していたりするからです。
「本来はあり得ない」のではなく、単に覚えてなかった
り忘れているだけなのです。
たとえば、貴方は一歳の頃の自分を覚えていますか?覚
えてないですよね?
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「君は昔女性のおっぱいをわしづかみにして舐めたり吸
ったり所構わず大小便したり奇声をあげたり、本当にと
んでもない人だったね」
なんて言い方をされたらこいつは何を言ってるんだと怒
りたくなるでしょう。しかし考えて見たら本当にそんな
とんでもないことを私達はやってきてるわけですね。
で、言い方はむかつくけど、よく考えたらその通りだね、
って言えるのは小さい頃の写真があったり、小さい頃の
話を聞いたり、周囲の小さい子供の行動を直接見ていた
り映画やテレビなどの動画で見た経験があるから言える
のです。
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ところがもしそうした経験が無かったらどうでしょう?
貴方が隔離されてそのような乳児幼児を直接にも間接に
も見る機会が無いまま育てられたとしたら、あなたは早
い段階でそのような乳児や幼児の頃の体験はすっかり忘
れ去ってしまいます。
そして厳しくこの世の礼儀作法を仕込まれて育ったとし
たら、「お前は小さい頃……」などと言われると、何言
ってるんだ!そんなわけあるか!と激怒するんじゃ
ないですか?
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だから貴方が死後の世界をあり得ない、と感じてしまう
のも、貴方が単なる忘れんぼさんであるからに過ぎない
のですし、また覚えてくることを選択しなかった、とい
うことでもあると思います。
そして存在が「消滅は免れえない」というのも、単にあ
なたの経験不足、見聞不足からの結論ではないでしょう
か?あの世を覚えていないにしても、霊能者などは世の
中に掃いて捨てて余るほどいらっしゃるわけですから、
本気で存在が消滅するものなのか存在は実在するものな
のか調べようと思えば違った結論が出るはずです。
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それはまたあまりにも視覚を絶対視する見解であるとも
言えるでしょう。人間が存在を確認するための感覚は、
視覚だけでは無いのですよ。そしてここでは私は体感の
重要性を指摘しているのです。
業務連絡一番スレ>125
では何故死後の世界や輪廻転生があるとするのか。
そうしなければ絶望しかないからだ。
すでに述べたように死後の世界や輪廻転生があるとする
のは、妄想でも希望でもなく、単純な「体験」と「記憶」
であります。それを理解されない頑固さんには絶望です
ね。
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業務連絡一番スレ>125
みじめで辛く過酷なだけでしかない「生」に、そして苦
しみでしかない「死」を迎えようとする人に対しての救
済的な意味で、
苦しみには意味があり死後の世界があるのだと説得して、
僅かでも苦しみを減らすだけの効果だけだと。
「みじめで辛く過酷なだけ」というのは、あなたが人生
というものに対して為した貴方自身の解釈であり、また
設定でもあります。全然そうは思っておられない人々も
きっとたくさんいらっしゃるでしょう。
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そして貴方が人生をそのように辛いものだと解釈したと
いうことは、実際に肉体的もしくは精神的に辛い体験を
した、ということを暗示しておりますね。
肉体的、そして精神的な苦しさを体験してしまいますと
人間というのはしばしばその辛さに飲み込まれるもので
あります。しかし人生とは「辛く過酷なものだ」と結論
づけるのは早計であります。
貴方自身、人生において楽しかった、うれしかった、感
動した、気分良かった、面白かった、気持ちよかった、
快かったと、様々な楽しみの時の体験を重ねてきたので
はありませんか?
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なのになぜ「辛く過酷なもの」と結論づけてしまうので
しょう?そこに疑問を持ったことはありませんか?
人間は創造力を持っておりますので、「辛く過酷なもの」
と設定してしまうといくらでも辛く過酷な現実を作り出
すことが可能であります。
本当にウクライナさんやウィグルさんや戦場に肉の楯と
して死ぬために狩り出されるロシアの兵士さん達は過酷
で気の毒であります。しかし貴方の嘆きや過酷なイメー
ジも、こうした現実を作り出すエネルギーの渦のかけら
を作り出していることはご存じですか?
-
そんなわけねえずら、と貴方は思うかもしれません。し
かし貴方の「おこなの?」という書き込み、その発した
想いすら私の意識に「おこ」という想いを起こさせまし
た。私はその「おこ」が「尾籠(おこ)」なのか「男子
(おこ)」なのか、なぜ「おこ」なのかと怪しんでおり
ました。
私の場合は貴方の想いのエネルギーをこういう形でキャ
ッチして私の意識に反応を起こさせた。即ち貴方の想念
は「仕事」をしたことになります。
このようにあなたの嘆きや過酷なイメージも、人類レベ
ルで集合すると、大きな現象を引き起こしてしまうこと
が可能です。
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さてなぜあなたはご自分の人生に楽しいときも苦しいと
きもあったはずなのに、貴方自身の認識としては人生を
「辛く過酷」と設定してしまうのか。
私思うに、貴方は半端な楽しみ喜びしか体験していない
のではないのか?
つまり単に貴方のモノの見方が苦しみの方に片寄ってい
るから、という考え方も出来るのですが、それ以前に実
は体験として楽しみと辛さ、快と苦がバランスが取れて
なかったのではないかと疑うのです。
-
辛さや過酷さが仮初めのものに思えるような確かさを確
信出来ていないのではないか?というわけですね。
ではどうしたらそうした人生の辛苦や過酷さが仮初めだ
ったりスパイスにしか思えないほどの揺るぎなさを得る
ことが出来るのでしょうか?わたしはここで二つの点に
注意したいと思います。
一つ目は「苦しみには意味がある」のか?って問題です。
だって、苦しみって単に苦しいだけですやん。
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苦しみには意味があるのか?
苦しみに善悪はなく、ただ苦しいという体験が在るだけ
じゃないですか。皆さん体験してみてそう思いません?
そして体験してみて言えることは、そんなしんどいこと
は自分も嫌だし人にも背負わせたくないよね、と。
苦しみからは早めに手を切るのが賢い、ってことですよ
ね?だからお釈迦様も苦しみから離れるのが大切だ、っ
ておっしゃったんじゃないですか?
「苦しみに意味がある」という言葉は深く人生を洞察す
る言葉としてはアリといえばアリです。でもこれは一歩
間違うと苦しみの引き寄せになっちゃいます。
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奇妙ですね、投稿ボタンを押したのに別画面になって肝
心の投稿が消えてしまいます。
これは邪魔が入っているのか、それとも125氏が閉口
してるのか、あるいはもう今日は寝なさいということか。
寝なさいということにしておこう。
125氏、悪気はないんだけど長すぎてごめんね。
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さて続きです。
昨晩消えてしまった投稿はやはり思い出せなくなってい
るので改めて端的に申し上げましょう。
人間はしばしば快楽は悪いことだという概念を持ってし
まいます。例えばキリスト教だと七つの大罪なんて申し
ましてね「怠惰」「暴食」「色欲」はやばい罪なんだそ
うです。
やばい罪ってことはですね、寝るのが大好きとか、食べ
歩きが好きとか、異性の側に近寄りたいとかは全てアウ
ト、地獄へゴーアウェイされる、って事らしいのです。
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そんな馬鹿なことがありますかい?こりゃトンデモハッ
プン歩いて二日の暴論だ。だってこの三つだけに限って
言えば夜も寝ないでゲームして人と顔も合わせず一日二
食のカップラーメンで過ごして人から話しかけられたり
視線を向けられるだけでキョドってしまって心臓バクバ
クするようになると天国への招待状が届く、って意味に
なるじゃないですか。(なんとこの状態で三つだけでな
くて、「傲慢」と「嫉妬」と「憤怒」と「強欲」もクリ
アして七つの大罪クエストコンプリートですよ)
-
まぁ確かにそのような生活を続けていると、別な意味で
の天国への招待状が発行されちゃいそうです。
前にも申し上げたことがあると思うのですが、感覚は存
在にとって基本的な存在条件じゃないですか。そして
「快」の感覚は適切なエネルギー吸収や放出の感覚であ
る、と私は思います。
存在とはなにかを意識エネルギー視点で見るようになり
ますと存在とはエネルギー循環の核であることがわかり
ます。存在は本来「快」の感覚を通してエネルギーを授
受して循環させ、「苦」の感覚によってその行き過ぎや
欠乏を調節していることがわかります。
-
従って快楽は悪いことだ、という認識は人間の存在の根
幹を脅かす危険性を秘めた言葉であります。
ところがこれに対して「快楽こそが人生だ」と申します
と、今度は行き過ぎてしまってやはり人間の存在の根幹
が脅かされてしまいます。
快に向かうべきか遠ざかるべきか、どうすべきかわから
ない、という話になってしまうのですね。どうしてこん
な話に陥ってしまうのかと申しますと、実は最初の言葉
である「快楽は罪だ」と言う言葉にどう反応するかによ
って話は大きく変わってしまうのです。
-
どういうことかと申しますと、人間は例えば「快楽は罪
だ」と言われると三つの反応がありうるのです。
一つは素直な反応で、「おや、そうなんですね。快楽厳
禁快楽厳禁。
でも快楽現金なんちゃってウへへへへ」ってやつでして
ああ、ダメなんだぁ、でもやっちゃうよね、こんな悪い
僕ちゃん私嬢を神様罰して、いや罰は怖いから教会様な
んとかして。ってやつですね。
二つ目の反応は元気の良い人で、「快楽は罪だぁ?そん
なわけあるか」って反発する人たちですよ。
-
この二つの反応は実は紙の表裏のようなものですね。実
は物事の在り方というのは「快楽は罪だ」という言葉を
聞いた瞬間に、人間はその設定を受け入れるか受け入れ
ないかの二択を迫られるのです。そしてよく考えてみる
と、「へぇそうなんだ」という反応も「何言ってるだ」
という反応も、どちらもその設定を存在させ存続させて
しまう反応なのです。単純な受容も反発も、設定を存続
させ人の心を縛るエネルギーになってしまうのですね。
三つ目の反応の仕方は、「ふーん(はい終了。撤収)」
ってものです。
-
三つ目の反応はうるさくあれこれ設定し、人間を縛り付
けようとする意図に対してエネルギーを返さない対応で
す。要は「あ、これは人間を縛り付けてしまう考えや」
と見抜いてしまえば興味も関心も無くなりますよね。そ
うすると人を縛り付ける設定は立ち枯れてしまうのです。
設定というのは創造なんです。創造の根源は人の意識に
よる想像なんですね。想像に言葉という形を与えたもの、
それが創造行為の原点であります。
言葉は心の中のモヤモヤエネルギーに形を与えたもので
あり意識エネルギーの一形態なんですよ。
-
そうしますと実は人間というのは日々様々なシチュエー
ションにおかれて言葉を発する機会を与えられておりま
す。こうしたシチュエーションは人間にとって創造行為
を促してるって言えるんです。日々言葉による創造を促
されているのです。そして創造に対しては結果が返って
きます。結果が返ることで自分が創造したものの意味を
考える機会が与えられよりよい創造行為が可能になる。
これが人生が上手く回った場合ですね。
でも人生なんてそんな上手く回るとは限らないですよね。
-
その原因を考えますと、まず生まれたときの設定の違い
の問題がありますね。最近よく言われる親ガチャなんて
のもその一つです。また自分の肉体的条件もそうですね。
身体が強いか弱いか、容姿が整ってるかそれほどでない
か、知的能力は高いか低いかなど、様々な設定要因があ
ります。それに埋め込んできた人生イベントというのも
あります。何らかの目的があって、さまざまな愉快だっ
たり不愉快だったりする出会いを用意していたり、場合
によっては事故や病気を用意していたりすることもある
ようです。
-
このように自分の人生というものは高いところに立って
俯瞰してみると一目瞭然なんだろうけれども、肉体の地
平からはなかなか分かりづらいところがあります。それ
故にサポートに何人もの霊人が付いているのでありまし
て、こうしたサポーターというかヘルパーさんとの緊密
な情報交換は地上生活を送る上での大切な条件であると
思います。
このように人生がなかなか思ったように回らない原因に
は一つにはご自身の人生の設定の問題があったのですが
もう一つとは他者との関係性の問題があります。
-
普通皆さんが気にするのはこちらの方ですね。人間関係
ってやつです。
それで人間関係がなぜ問題になってくるかと考えてみま
すと、話は単純で、相手が自分の事を分かってくれない。
自分が相手のことをわかっていない。
ほとんどの原因はこのどちらかではないでしょうか?
では今日はこれで失礼。
-
こんばんは。
ちょっと読み返してみたのですが、昨日の投稿は言葉の
使い方わりと厳密なところとルーズなところが混ざって
しまっています。
例えば、>557 「設定というのは創造」というのは「創
造」と言う言葉についてルーズな使い方をしています。
「設定というのは、人の創造行為に枠や方向性をはめて
しまうこと、言い換えると人の言葉に枠や方向性を与え
てしまうこと」と言うのがより正確な表現です。
-
また「創造の根源は人の意識による想像」というのもや
はりルーズな表現ですね。「創造の原点は『想い』、
『想像』であり心におもい描くこと」だとでもするのが
適切でしょう。
また「想像に言葉という形を与えたもの、それが創造行
為の原点であります」という表現も「私達が心の中に思
い描いた影のようなものを、私達は言葉で表現します。
この言葉で表現する、という行為によって、私達の心の
中に沸き起こっていたモヤモヤしたエネルギーが言葉に
よる方向性(ベクトル)を与えられて外界に飛び出すの
です」
-
「それはエネルギーが、『言葉』として目には見えない
けれども感じられる音の身体を与えられ、あるいは『文
字』として目に見える身体を与えられ、あるいは目に見
えずなかなか人には感じてもらえない想念として身体を
獲得した瞬間、ということができます。
このようにして抽象的な意識エネルギーが人の意識とそ
の選択により、具体的で直接作用する形のエネルギーへ
と変換されて人の世に循環してゆくのです。」
とでも変えた方が良いでしょう。
-
ちょっと理屈っぽい言い方になるんですけど、たぶんこ
の方が正確に伝わるのかな、最初の言い方ではきっとあ
まり伝わらないのだろうなと思いますので修正いたしま
す。
>527以降の表現についても明日見直してみます。
ではおやすみなさい。
-
こんばんは。
>552
七つの大罪クエストコンプリート→七つの大罪克服コン
プリート
>547
私思うに、貴方は半端な楽しみ喜びしか体験していない
のではないのか?
これはちょっと失礼な言い方になってしまったかもしれ
ないのですが、このままでは説明不足なのできちんと説
明したいと思います。
例えば味覚について考えてみましょう。貴方は、食物の
味の違いが分かりますでしょうか?と私が誰かに問いか
けたとしたら、貴方はその意味が分かりますか?
-
「もちろん分かるよ」と言うのか、それとも「ん?お前
は何を言おうとしてるんだ?」と疑問を持たれますか?
例えば味覚という一つの感覚について考えてみましょう。
実は私達が真剣にものの味を味わおうと追求してゆきま
すと、つまり真剣に美味しいものを食べる体験をしてみ
ようと追求してゆくと、舌で感じる感覚には全然違カテ
ゴリーの二種類の味があることに気がつきます。
一つはどちらかというと調味料で作られた味、とでもい
うべきもので、確かに美味しいんだけど「飽きる」感じ
がしてしまう味覚です。
-
>566,567 名前入れ忘れです。
もう一つは「滋味(じみ)溢(あふ)れる味」とでもい
うべきもので、味にエネルギーがある、味そのものに力
を感じるような味なんですね。
ではどういうものが「飽きる」味なのかというと、私の
体験では加工食品、それから都会のスーパーで売られて
いる野菜、鮮度の落ちた食品ですね。
というのは我が家は農家でしたので、我が家で作ってい
た野菜と比べまして都会のスーパーで売られている野菜
は規格は揃っているのですが味に力が無いので、あまり
食べたいという気持ちが起こらないことが多かったです。
-
それで私は自宅で我が家で作っていた野菜を食べていた
頃は毎食生野菜にマヨネーズをかけてカレー皿一杯食べ
ていました。無理して食べていたのではなくて、美味し
くて食べていたのです。
ところが都会で学生生活をするようになりますと野菜が
まずくてとてもそんなに生野菜サラダを食べる気分では
なくなってしまいました。すっかり野菜生活から遠ざか
ってしまいました。
その後サラリーマンを辞めて地元に帰ってからは私自身
も野菜を作るようになります。
-
そうするとまた美味しい野菜が豊富に手に入るようにな
りましたので生野菜サラダが復活しました。
その後、食べ物の味に敏感になりました。味の何に敏感
になったかというと食べ物のエネルギー、食べたときの
食べ物の力に敏感になったのです。
それで、それまで美味しく頂いていたお菓子やケーキな
どの加工食品があまり美味しく感じられなくなってしま
いました。
-
そうしますと、味覚には二種類あるということがわかり
ます。一つは物質的な感覚、化学変化の感覚としての味
覚です。
もう一つはエネルギー的な感覚としての味覚ですね。
この両者の違いは、物質的な感覚は味が薄っぺらい。食
べたてるときは「うまい」とは感じるのだけど食べても
食べても満足が薄いです。物足りなくなって、スッカス
カなのに味の刺激が強いとその刺激を求めてしまう、悪
い意味のクセになる感じですかね。
エネルギー的な感覚のほうの味覚は味が濃い。太い感じ
です。
-
で、私が言いたいのは、業務連絡1番スレの125氏は、
刺激としての感覚体験はあっても、エネルギー的な感覚
体験の経験が不足してんじゃないの?ってことです。
私が言う、身体が教える「快」「苦」というときの「快」
とは、結局このエネルギー体験としての「快」であろう、
そして肉体的な刺激としての「快」は見せかけの「快」
でしかなくて、あまりに刺激の方の「快」を追いかけて
ゆきますとエネルギーの裏付けがないので結局「苦」に
反転してしまうのではないでしょうか。
-
これは味覚で説明したのですが、視覚、聴覚、嗅覚、触
覚全て同じ事が言えまして、五感と申しましても私達は
実は単なる刺激としての感覚とエネルギー的な感覚の両
方を受け取る能力があります。そういう意味では五感で
はなく十感といってもいいのではないか。
そして刺激としての感覚をのみ意識しますと、そこには
エネルギーがないので存在の根っこがありません。
エネルギー的な意味での五感の感覚をしっかり体験して
ゆく事で存在の根っこがこの現実世界の中に張り巡らさ
れてくる実感があるのではないでしょうか?
-
さて、私達が感じる五感の感覚には物質的な刺激の感覚
と同時に、なにか非物質的な感覚も、同時に感じている
のではありませんか?という話をしております。
五感ではなくて、人間は十感を使って生活している、と
いうのが正確ではないのか?ただ、物質的な刺激に比べ
ますと、この非物質的感覚はちょっと物質的感覚の方に
マスクされやすくて気がつきにくいんですね。物質的感
覚のほうが主張が強いわけです。
人間関係でも、陽キャの人の言い分や存在感にばかり気
を取られて、陰キャの人への気遣いが疎かになる、みた
いなところがありますよね?
-
ところがクラスの中には陰キャの人も静かに座っている
わけですよ。そして賑やかな陽キャの人は陽キャの人で
付き合っていると楽しいわけですけれども、陰キャの人
に目を向けてしっかりと向き合って仲良くなってみると、
案外このタイプの方が陽キャにはない魅力をたくさん持
っていることに気がついたりするものです。
それなのに、陰キャの人は居ない扱いをしてしまうと本
当に居るのか居ないのかわからない。あれクラスにあん
な人居たっけ?居たけどあの人のことはなにもしらなー
い!なんてことになってしまいます。
-
五感十感の話も同じです。
五感しかないと思っていると、陽キャしか居ないクラス
のように感じてしまって、確かに楽しいのは楽しいのだ
けど同時に底の浅い人間関係、底の浅い物質世界体験を
しているのかもしれないですね。
ところがクラスの中には陽キャも陰キャもいることに気
がついて陰キャの方の友達も作ってみましょう。すると
彼らは意外と物事を深く考えたり感じたり理解したりし
ているものです。そうしますと陽キャの友達だけでは得
られなかった人生の深みとか物事の深い見方を知ったり
理解出来るようになったりします。
-
このように物質的な五感だけに目を向けて生活している
場合と、それにプラス五感した合計十感で生活している
場合では物事の感じ方、そこから得られる理解度とか認
識度が変わってきますし、当然人生の手応え、充実度、
生き方も変わってくるものです。
それでは五感+五感の合計十感とは何を言っているのか、
改めて説明してみましょう。私は最初に味覚のことから
説明いたしましたので、再度味覚から説明し直してみま
す。
-
味覚についての私の体験から私自身の認識を申し上げる
と、味覚には単純な物質的刺激としての味覚と、それと
は別にその食品の持つ生命力というかエネルギーを感じ
ているような種類の味の二種類があります。
通常私達はこの二種類の味を同時に感じております。
同時に感じているには居るのですが、後の方のエネルギ
ーとしての味覚の方は、まるでクラスの片隅にぼっちで
座っている陰キャのような扱いを私達はしがちなのです
よ。
だから居るのは知ってるというか感じているんだけど、
居ない扱いなんですね。
-
しかし感じてはいるんだから、もう少しこの意識エネル
ギー的な味の方に注意を向けてみましょう。そうすると
実は物質的な感覚としての味覚が強いだけでは私達はあ
まり味覚に対して充実感を持つことが出来ないことが分
かります。
物質的な味覚に片寄っている食品といいいますと、砂糖
をたくさん使用した工業製品の菓子なんかが代表なんで
すが、それらは食べて確かに甘い美味しいとはなるので
すが、なんと言いますか私の体験では本当のところの満
足感に欠けるのです。
-
なんと言いますか、味に厚みがない。細い。一袋食べて
も必要な満足感に到達しないのでついお腹いっぱいまで
食べてしまいそうになる。それでも十分に必要な(意識)
エネルギーが確保されてない。こんな風に食べてもむし
ろ不足感を感じてしまうので大量消費しそうになる。
営業的にはこれで正解なのかもですが、不健康でありま
す。食べても止まらない依存性が出てきてしまうのです。
意識エネルギー的な方の味覚を意識し始めますと私には
この工業製品のお菓子の味の薄っぺらさがちょっと嫌に
なってきてしまったのです。
-
そしてエネルギー的にもっとしっかりした、満足感のあ
るお菓子はないのか?と探し始めるようになりました。
いまのところあまり良い報告は出来ないのですが、手作
りの和菓子みたいな方向に行くのかもしれないですね。
スーパーに売ってるようなお菓子は和菓子にしても洋菓
子にしても工業製品ですのでそこまでエネルギーの大き
なもの有るのかな?という感じです。それよりも果物に
注目しています。果物も品による差は大きいのですが、
しっかり手応えのある味のものを感じやすいです。
-
このように味覚に限って見ても、私の場合味についての
考え方が変わり、食品を買うときの基準や購買行動が変
わって参りました。また、エネルギーの高い食品にはど
んなものがあるのか、トライしてみようという楽しみも
出てきます。
とりあえず量があれば良い、安ければ良い、甘ければ良
いみたいな食事の基準が随分変わってきたのです。
このように味覚一つにしても、食事への認識、理解度、
満足度、行動などが随分変わって参ります。
-
とりあえず今朝はここまでにします。
視覚、聴覚、嗅覚、触覚についてはまた後ほど検討して
みましょう。
それぞれの感覚について特徴があります。
私達は色々なことをごっちゃにして理解しているところ
があります。ごっちゃにしながら決めつけて判断してい
るところが多いと思うのです。
125氏はあの世があるならそれを自分にも信じざるを
得ないようにして欲しい、とご希望なのだと思うのです
が、そのご希望は少し微妙だなと私は思います。
-
なぜかと申しますと私達は物質的世界に住んでおりまし
て、それはいわゆる霊界とは違う世界だと想定されてい
るわけですが、はたしてそうでしょうか?
確かに私達は物質的世界に住んでおりまして今まさに物
質的体験を重ねている最中ではあります。しかしその物
質的体験とは実は半分霊的体験でもあるのだ、なぜなら
私達の五感は物質的感覚と同時に霊的感覚をも感じてい
るのだから、ということを強く申し上げたいと思います。
-
ふむ。
つい最近、知り合いの住職から説法を聴いた。
お経をあげる、と言う。唱えるとか読むもあるけどね。
ただ読んで声を発するのではなく、過去や未来に思いを馳せてリンクできるように
言葉を音叉のように共鳴させるつもりで、「お経をあげる」のだというような話だった。
まるで>>584にリンクするような話だと思わないか?
五感は物質的感覚と同時に霊的感覚を感じ取る受容器官ならば、
声を発する、リズムをとって音を発する。
音って何だろうね。
-
こんばんは。
10日朝6時は満月でした。
私は意識の浄化は満月のイメージを使ってしております。
イメージですから、別に満月が実際に出ている必要は無
く、心の中で満月の清らかな姿と感覚を感じればそれで
いいのです。
しかし、やはり実際に満月を姿をきちんと見ておかない
と、段々イメージが弱々しくウソっぽくなってしまうの
です。
それで満月の日はできるだけ中天の満月を見て、目に焼
き付けるように心がけおります。
-
残念ながら9月15日の満月は雨天で姿を見ることが出
来ず、8月も確か雲の中でしたから久しぶりの姿を見る
機会になります。
9日夜から満月浄化を始めて、チャクラの浄化と開花を
図りました。10日夜は月のエネルギーを体内に蓄積す
るワークと、過去の意識の浄化を試みました。今回は平
成元年度1年分に取り組んでみました。
過去の意識の浄化については以前にも説明したことがあ
りますが、月の光の浄化と日の光の浄化を試みています。
月の光は満月、上弦、下弦、新月と三つの浄化があるの
ですが、今回は満月浄化です。
-
結果として今回チャクラの調整も過去の意識の浄化も上
手く行ったのではないかとの自己評価です。
次の機会は18日の下弦の月の日になりますね。
今回の過去の意識の満月浄化は1年分が1時間半かかり
ました。この計算で行くと五種類のエネルギーで最低5
回浄化でワンセットになります。一年分は7時間半、ほ
ぼ一日がかりの大仕事になります。
手帳に浄化の記録ページを作って、何月何日に何年分を
何のエネルギーの浄化したか分かるようにして管理して
おります。先はかなり長いですね。
-
さて続きであります。
>585
音って何だろうね?
音は不思議です。
私は色々考えてゆきますと、存在とは、意識とは、その
本質は鳴り続ける音のようなものではないのか?と直感
的に感じております。
そこで音について研究しようとスピーカーを買ってみた
のですが大して研究が進まないうちにまず低音スピーカ
ーが壊れてしまいました。次にアンプが壊れてしまって
まだ更新ができておりません。
-
さて、抽象的な「音」の話は措(お)いておいて、いま
は具体的な聴覚の話を進めましょう。>585はお坊さ
んのお経の話でしたね。お坊さんのお経と申しますと私
もいくつか体験がございますので、一番スレ125氏に
ならってまずその体験からお話しさせて頂こうかと思い
ます。
ただ時間も遅いので日が昇ってからということで今晩は
これで失礼させて頂きます。
-
最初に断っておくと、俺は125氏ではない別の人。
色の感覚器官・空の感覚器官
感覚器官にもこの2種類があるという話と理解した。
色の器官は分子同士の化学反応を司り、
空の器官は目に視えないエネルギーを受け取る。
面白い。
空の器官でエネルギーをふんだんに浴びて、エネルギー的な骨太の「快」を味わい尽くすのなら、生きることに前向きになれるっていう主張も、そうだろうなと思う。
ただ、俺の個人的な主観は125氏寄りだ。
でも霊界とかは在ると思ってる微妙なところ。
その所感を文字にしてみたらポエムと化したけど、
折角書いたから投下させてちょ。
-
(>591つづき)
創造神、迷惑なんだよ、( ゚д゚) 、ペッ
勝手に世界も俺たちもこしらえやがって。
頼んでないだろ。
創造神が勝手な思いで始めたこの世界、
本来何の意味もない、生きなければならない義務もない、義理もない、
生きる理由なんてない
肉体の維持機能に追いたてられるまま、こき使われてるだけだな、俺は。
唯物論の言うように
死が消滅であったら、どんなに楽か。
その場合、死は救いであり、解放なんだ。
死は解放となる。
輪廻し、あの世があるのなら
俺たちは死なないと言うのなら
永遠に続く生なんて、むしろ何の罰なんだ
永遠の命なんて、苦痛が過ぎる
疲れる 果てしない
消え去って楽になりたい
生きている責任に潰れる
生という重荷を降ろしたい
死が永久的な消滅であるなら、むしろそうであった方が俺は救われる。
ホッとする。
だが、一方でこうも思う。
分子をいくら集めても
そこから「意識」が発生する気がしない
物と心は別物で、
物を組み立てたところで心が生まれるとは思えない
いくら精緻なシステムを構築しても
内側からの視線(=意識)は生まれ得ない
システム自身は意識を生まない
意識とは別のところからやってきて「宿る」ものだ
物質世界からは生まれ得ない、創り出せない
俺たちが意識を持ち、内側から世界を眺めているという事実、それ自体が、
即ち物質ではない世界が存在することの証左であると思う
意識とはこの世の物ではない
俺たちは、この世の物ではない
俺たちは、物質ではない
-
>591
こんばんは。
591さんの考えと私の考えは少し違うのです。591
さんは私の主張を、「我々は肉体的な感覚器官と同時に
霊的な感覚器何(霊体の備える五感)を駆動して、それ
らを同時に感じている」と理解されているように見受け
られるのです。
しかし、私の考えは我々の肉体の五感、つまり眼球や耳
や鼻や舌や皮膚は、物理的な刺激と同時に霊的な刺激に
も弱い反応をしている、という認識です。
これは考察しますと、霊的な刺激の中には、大変物質世
界と近い種類の刺激も含まれているのだ、とも解釈でき
ます。
-
これをまた別な表現を試みますと、みんな大好き「波動」
という言葉を使いまして、「霊的領域には物質的波動世
界と極めて近い波動領域が存在していて、肉体の感覚器
官はそうした波動領域の一部の刺激を感受することが出
来るのかもしれない」という言い方ができると思います。
そして私の実感で言いますと、この霊的な刺激に対する
感覚は物質的刺激と比べますと弱いのでマスキングされ
てしまうことが多いのです。つまり、「目に見えるもの
しか無いのだ」という風に思わされてしまうと、あって
もなかなかその存在に気づけない。
-
私達は表向き、目に見える物質世界だけが存在していて
霊的な世界は無い扱いの設定になっております。しかし
一方では霊的な世界も在るんじゃないか、いややっぱり
無いんじゃないか?霊的な世界は無いはずなんだけど、
やはりそれでも霊が憑いてる、なんて脅されると怖いで
すし深夜のお墓も怖いものです。こんなふうに霊的世界
の存在に対してははっきりしない態度を維持していてい
ます。
「ある」とはっきり言うと笑われたり引かれたりするか
もだけど、かといって無いものとして押し通して生活す
るには怖い場面がある。
-
しかも、誰かが亡くなると、いままでほとんど強要されて
いた「あの世はありません」と言う態度をとり続けている
と今度は逆に白い目で見られてしまう。あの世は当たり前
にあります、あの世でも幸せに過ごしてね、とハラハラ涙
を流さないと常識を疑われる。そんな精神分裂のような世
界に住んでいるのです。
考えて見ますと世間の建前である「物質的な世界が全てな
んだ」というモノの見方は、肉体的な目、耳、鼻、舌、皮
膚の感覚という肉体的五官の感覚の世界が絶対だとする立
場に立っております。
-
一方、近しい人や推しの人が亡くなった時の悲しみ悼
(いた)む心は人の心の素直な部分から出た反応であ
ります。
それは世間の建前には背くのだけれども、それが人と
しての素直な気持ちなのだから、と社会的に理解され
ていて、正当性を与えられております。
でも本当でしょうか?
どちらかが正しければどちらかが間違っているに決ま
ってます。
こんな精神分裂のような態度を取る社会、大人の世界
なんて嘘っぱちだーーーッ。って誰かに反抗されても
仕方ありません。
-
しかしですね、五官が感じる五つの感覚には実は物質的世
界の感覚成分と霊的世界の感覚成分が混じっているのだ、
というふうな考えに立ちますと、モノの見え方は全く異な
って参ります。
世間の建前は物質的世界の感覚成分に対応した対処の仕方
であり、また故人を偲(しの)び冥福を祈る感覚は霊的世
界の感覚成分に対応したそれぞれ自然な対処の仕方である、
と理解出来るのです。
-
ただ問題は、私達が自分自身の感覚を素直に信じていな
いことですね。そして色々な場面で、様々な設定によっ
て、感じ方考え方がねじ曲げられ操作されてしまってい
ることだと思います。
私がこのことに気がつくようになったのは、身体の感覚
に意識を向けたからでした。身体との対話ですね。
さて591氏の投げかけた様々な疑問についてここで対
話を始めてしまいますと一番スレ125氏に向けたお話
が途切れてしまいます。そこで591氏のお話はまた次
の機会にすることにいたしましょう。
では失礼。
-
かなり冷え込んできましたねー
これから鍋の美味しい季節ですが
出来立て熱々が食べられるっていいですよね
ところで、アーユルヴェーダでは出来立てを食べるのが最上とされ、
作り置いたものはプラーナのない生きていない食べ物なので食べない方がいいそうです
単純に腐ったりなど衛生面の問題もありそうですが
確かに出来立てを食べるのと作り置きしたものを温め直して食べるのとでは、同じ料理でも何か違う気はします
-
>600
こんばんは。結局私が感じているのは「気」の知覚につ
いてのことだと思うのですが、仰るとおりできたての料
理と時間が経った料理では何かが大きく違うかんじがし
ますね。
これは「プラーナ=気」と考えることで良く理解出来る
のではないでしょうか?
作り置きすると気が抜けてしまった料理になる、という
ことだと思います。気、即ち意識エネルギーであります。
-
結局私達の身体は物質的な刺激に対して化学的な反応を
起こし、様々な変化を生じます。私達の意識はそれを感
じますと、綺麗だ、汚い、美しい、うるさい、良い匂い
だ、臭い、美味い、まずい、すべすべだ、ざらざらだ、
などと感じます。
そうした五官の感覚に対して今度は好きだ嫌いだの感情
が生まれ、いい気分だ嫌な気分だのムードが生じますね。
そうしますと次は、ああしたいこうしたい、ああしなけ
ればこうしなければという欲望や、あれはなんだこれは
何だろうと見たい知りたい感じたい人間本来の好奇心が
湧き起こって参ります。
-
この物質的な化学変化と同時に、私達の身体は気の変化
に対しても敏感に反応し、また様々な化学変化を誘発さ
れているのではないか、ということです。
私はこれまで物質的世界と意識世界は連続体である。断
絶しているように見えるのは落差が大きいだけで実際は
断絶しているのではなく連続しているのだ、ということ
を何度か申し上げました。
そもそも本当に断絶しているのであれば相互の行き来は
不可能であり互いに感知することは適(かな)わなくな
ります。
-
ところが実際には、例えば霊能者と呼ばれている一群の
人々がいらっしゃいましてあの世とこの世を結んで人々
の良き相談相手になっていたりします。
また私達自身やその近しい人々が様々な霊的体験をして
いたりするものです。
これはどういうことかというと、本来繋がっているから
通じることが出来るのであって、実際は我々が思ってい
る以上にあの世とこの世は近い関係になるのではないで
しょうか。
つまりあの世とこの世は紙一重、というより重複してい
ると言って良いかもしれません。
-
つまり、「気」というものを通じてあの世とこの世は重
複しているのだ、そのような理解が出来るのではないで
しょうか?
そして私達の五官は物質的な刺激と同時の気の刺激をも
感じ取ってその感覚を私達の意識に伝えているのだ、こ
のように考えることが出来ると思います。
そう考えますと例えば故人の霊前に好きだったものをお
供えする、などの行為の意味が良く理解出来るようにな
ります。
-
即ち私達は物質的なタンパク質や脂質、炭水化物などの
持つカロリー、即ちエネルギーを摂取することができ、
それによって肉体を維持しているわけです。
しかしこれらの食品には同時に気のエネルギーも含まれ
ており、こうした気のエネルギーの摂取も私たちの健康
な肉体維持のための必須な栄養素として重要なのだ、と
考えることが出来るのです。
つまり気が満ちた新鮮な素材で調理した、調理し立ての
新鮮な食物を食することが健康維持の一つの重要な要件
になってくるのではないか?ということですね。
-
ではこの気がどこで入ってくるかと考えますと、まず食
物自身の生命力としての気があります。そして調理した
り、その食材や食に携わる人々の気というものもあるの
です。
こうした両者の気が最高の状態でバランスを保っている
のは、良い食材を新鮮な状態で調理したての料理である、
ということができますね。そうした料理は本当に美味し
くて命を養う感じがするものです。
一方で、良くない材料だったり何日も経って気が抜けて
しまったような料理だと味はあっても本当のおいしさが
欠けています。食事というより餌になっているようです。
-
こうして気というものを通して食事を見直してみますと、
食材に対しても、生産者や輸送などの中間業務に携わる
人々、そして調理する方々に対してもものの見方が変わ
ってくると思います。
例えば「食べ物に感謝する」といいますが、その感謝の
意味づけが従来とは変わって参りますし、また食に携わ
る生産者、中間業者、調理者全てが幸せな気や元気な気
に包まれていることが望まれてくる、と思います。
社会の在り方にも関わってくることなんですね。
なかなかお坊さんの読経の話までたどり着けないんです
が今晩はこれで失礼します。
-
こんにちは。
以前は時々ゆで卵を作って保存食的に冷蔵庫に保管して
取り出しては食べる、と言うようなことをやっておりま
した。
600氏のおかげで新鮮な食材を調理後すぐに食べるべ
き、という認識を得たので今日は必要な分だけ(2個)
をゆで卵にして、暖かいうちに食べてしまいました。
お前は食べ物と気について解説しているくらいだから、
そのくらい不断から当たり前にやっているのだろう?と
思われるかもしれませんが、そういうものではありませ
ん。
-
実は人間の意識の性質を観察しておりますと、理屈の上
では確かにそうなんだけど、具体的に言われるまでは認
識できていない、ということは多いと思います。
これが自分にとって当たり前のことでも、人によっては
言われるまで分からない、あるいは言われても理解出来
ない、というよくある現象になって現れていると思いま
す。
私も食物の気について、考えて見るとなるほど詳しく考
察は出来るのだけれども、ではふだんからその考察通り
の食事を出来ていたかというと全く反対だったのです。
食事と気の関係について認識がなかったからです。
-
そうしますと、具体的にこれはこうだよ、あれはああな
るんだよ、と一つ一つ手に取るように説明して下さり、
教えて下さる方によって私達は一つ一つ新たな認識を得、
知識を増やしてゆく事になります。
私も600氏が、食事は作りたてを食べるのがいいんだ
よ、と教えてくれたことで食事と気の関係の認識に至り、
今までのの自分の食生活の悪かった部分を認識すること
が出来、新たな知識として早速実行実践することで珍し
く美味しいゆで卵を頂くことが出来た、という流れにな
ります。
-
食べてみますと、今までしばしば食べていた一週間前に
茹でて冷蔵庫に保管しておいた冷たいゆで卵とは、確か
に雲泥の差なんですね。
なるほどうまさが染み渡る。いわば死んだゆで卵と生き
たゆで卵の差というのでしょうか、ちょっとわかりにく
くて気がつきにくいかもしれないのですが生きる活力が
感じられるんです。
気がつきにくいけれども、この差は大きいのかな?いつ
もいつも気の抜けた死んだ食材を食べているのと、気の
満ちた食材を食べているのではその人の精神や運命まで
違いが出てきそうな感じがあります。
-
そうしますと私はいままで食事を作る面倒くささを省く
代償に、食事から得られる気、活力を差し出していたの
だ、ということになりますね。あまり割りの合わないト
レードをしていたことになります。
今食べたゆで卵は活力と言いますかね、気が溢れている。
エネルギーがある。エネルギー(気ですから意識エネル
ギーですね)は私の心の状態、意識の状態を変化させ
る能力のことです。どんなに方向に変化させたかという
と心の熱、とでも言いますかね、生きる喜びってでも言
いますかね。
エネルギーは喜びなんですね。食べる喜びですよ。それ
がある。
-
人生の活力、喜びって、どこから湧いてくると思います
か?
一つは適切な食事や睡眠、運動ですよ。食事や睡眠、そ
して運動によってエネルギーを吸収し循環させてゆく、
この体験が喜びなんですね。
もうひとつは人間関係ですよ。人と人との間でエネルギ
ーを正しく循環させてゆく、この体験がやはり喜びなん
ですね。人と人ですから具体的には親子関係、兄弟関係、
隣人関係、友人(男女関係含む)関係になりますね。
そしてもう一つは自然とのエネルギー循環なんですよ。
-
つまり、肉体のエネルギー循環、相手とのエネルギー循
環、そして自然とのエネルギー循環、この三つの循環が
滞りなければ人は充実を感じて幸せでいることが出来る
と思います。
これらの循環がスムーズであるためには、やはり多くの
知識が必要になってくるわけですし、そうした知識を教
え合うことは大きな愛の行為である、といえると思うの
ですね。
それはそんな大げさなことではなくて、600氏のよう
なさりげないつぶやきが、すでに大きな愛の行為になっ
て私の前進を促していた、ということであります。
-
こんばんは。
ゆで卵の続きです。
ゆで卵なんていつでも食べてるようで実は暖かいゆで卵
をたべたのは随分久しぶりです。それまで何も思わずに
食べていたわけですが、今回その食べてみて本当に美味
しいなと思いました。
そしてこのゆで卵を食べたときの食事による意識エネル
ギーがどれだけの間私の意識に変化を与え続けられるか、
観測してみました。そうすると、私の体感では強い変化
を約3時間観測することが出来ました。
-
その後弱い変化に移ったのですが、その持続時間は四、
五時間程度であったようです。
その後菓子を食べたのでそれ以降の影響の観測は出来
なくなってしまいました。
このような問題意識を持ったことも、意識エネルギー
の観測を試みたこともこれまではなかったことなので
とりあえず報告だけしておきます。
600氏の鍋の話が思わぬ展開となってしまいました。
-
こんばんは。
意識エネルギー(または「気」)の性質については、実
はあまりにも身近すぎるために私達にはかえってよく分
かってないところがある、と思うのです。
意識エネルギーと名付けるとなにか特別なモノとか、普
通の人にはよく分からない特別な人だけが感知できる私
達とは無関係な霊的な話、というふうに考えてしまうか
もしれません。
しかし実際はそうではありません。
一秒一秒過ぎてゆく日常の中で常に私達が感じ動かされ
て、一喜一憂している生活体験そのものなのです。
-
ところが日々体験しながら、ただ目に見えない触れられ
ないと言う理由で見過ごされ、気づかれずにきた分野で
もあります。
そして不思議なことに、意識の世界ではたとえ存在した
としても、存在して機能しているだけではダメなんです
ね。存在を認めてもらわないと、始まらないんです。
ですから、意識エネルギー、「気」の存在に気づくとい
うことは、「気づかないモノに気づく」、あるいは「気
づかない存在に気づく」という意識体験である、という
ことが出来ます。
-
そしてその意識体験、つまり「気」の存在、見えないエ
ネルギーの世界に気づくという体験は、物質文明から精
神的文明へと飛躍してゆくキーとなるでしょう。
なぜなら物資的利害によって組み立てられた現代文明の
価値観のなかに、「心」の価値観を導入することになる
からです。その「心」の価値観とは、より私達の存在の
本質に近く、私達多くの人々の意識体験に裏打ちされて
多くの人々からの納得の得られる価値観であることでし
ょう。
-
現代文明、物質文明は「知性」文明だということができ
ます。
これは私も以前から繰り返し申し上げてきたところです
し、またこれまで多くの人々によって指摘されているこ
とでもあると思います。
ではそれと対立する概念はというと、「霊性」の文明と
いう言葉を考えることが出来ますよね?しかしながらこ
の地球上にある霊性の文明というものを考えると実際の
ところはどれもなかなか上手くいかなかった、それほど
素晴らしい社会を作れたわけでもなかった、と言えるの
ではないでしょうか?
-
霊性に注目した社会というと、例えばインドネシアやイ
ンドなどのアジア諸国の文化とか、エジプトやアフリカ
諸国の文化とか、アメリカのインディアンの社会とか、
ケルトやポリネシアの人々の文化などが思い浮かぶと思
うのです。
しかしそれらの社会はあるいは自然の脅威に翻弄された
り、迷信が横行したり奇妙な社会制度が発達したり、ま
たは文明が発達することなく停滞の中に安住していたり
した歴史がありました。
結果として物質文明によって駆逐されていったわけです
ね。
-
それは「霊性」、即ち目に見えない存在達がおり、その
存在達との交流・交信を重視したとしても、それだけで
は人間の幸せを実現することは出来ないことを示してお
ります。人間の幸せと申しますか、大きく出ればこの星
の幸せですね。この星とその星の上に住む全ての存在達
の最大幸福です。その降伏を保障する最低限の条件がい
わゆる「持続可能性」ということになるのでありまして、
今後も末永くこの星、地球の環境を維持してゆくことが
できるのか?というような話になるのです。
しかしながら、これは本当に最低限の条件の話ですよね。
-
地球環境を持続させ、あるいはさらに進んでかつてのよ
うに美しく豊かな環境を復元し、その環境の元で人々や
生き物がより幸せに暮らすにはどうすればよいのか?
これが現在の私達一人一人に突きつけられている、集団
としての人類の課題ですよね。
その回答とそのための取り組みとは複雑多岐にわたる、
ということになるのでしょう。しかし実はこれを集約し
てゆくと割と単純に一つの理念に到達するのです。
-
それはある意味手垢にまみれた言葉のようにも思われる。
でもいくら使い古されて汚れがついたかのように思われ
ていたとしても、実際にその言葉を口にしたり心に思い
浮かべる度に新鮮な輝きを伴って私達の心によみがえっ
てくるような言葉であります。
「愛」ですね。
そこまではいいんですが、じゃぁ「愛」って何?地球に
「愛」?何をしたらいいと言うの?ってなったときには
ハタと困るわけです。
ん?何をしたら良いんだろう?家庭ゴミをちゃんと分別
すれば良いのかな?……なんてね。
-
そこに思い浮かぶ「愛」のイメージは例のイメージです
よ。
中高校生が夏休みや冬休みの宿題で、環境ポスターを描
かされたりしますが、その時に良く出てくるのが地球を
グルッと取り囲んで人間や動物が手を取り合っているイ
メージがありますね。あれですね。
私だけじゃないですよね?「愛」って何?ってなったと
きに、せいぜいそんなイメージしか出てこない、っての
がまぁ普通なんじゃないでしょうか?
つまり答えの言葉は分かっている。でもその言葉の意味
もなぜそれが答えかも分からない!って状態です。
-
実はその答えを導くものが意識エネルギー、即ち「気」
の認識なんです。以前、「愛とはエネルギーの交流であ
る」という私の愛の定義のお話をしたと思います。
私は意識エネルギーの循環、あるいは気の循環という認
識を得ることによって「愛」の理解と納得が大変進んだ
のです。その結果どうなったかというと、「愛」が単な
る言葉としての「知識」から「行動」へと進化しました。
霊と身体、目に見えない世界と現実世界、知性と霊性、
これらを結ぶのが意識エネルギーの世界であります。
-
意識エネルギーが見える世界と見えない世界を結ぶキー
となる、と申しました。
なぜなら意識エネルギーは見える世界にも見えない世界
にも存在して実際この両者を自在に繋いでいると思われ
ます。
ですから意識エネルギーは、何か特殊な能力を持った一
部の人だけの所有物というのではないのです。誰もが実
は毎秒毎分経験しつつある、ただ指摘する人がいないの
で気がつかない、そんな力であるわけです。
-
ですから1番スレ125氏も、なにも私に見えない世界
の存在を確信させてもらう必要なんてナッシングなので
す。
ご自分で意識エネルギーを自覚し、意識エネルギー体験
を深めてみれば揺るぎない確信に至ることでありましょ
う。
そのために125氏がいままで物質体験だと認識してお
られた体験の中には、実は意識エネルギー体験の成分が
たくさん混入していたのだ、ということを更に実例を挙
げて説明させて頂きたいと思います。
ということで次から聴覚と意識エネルギー体験について
お話したいと思います。では失礼。
-
こんばんは。
今週は大変忙しくて、なかなか時間を作ることができま
せん。毎日遠方へと行ったり来たりしております。
月曜くらいからは多少落ち着きそうですが、恐らくそれ
までは投稿は難しいのではないかと思われます。
話の途中で申し訳ないのですが、状況報告しておきます。
-
こんばんは。
昨晩大阪から戻ってきました。某NPO法人を訪問して、
メンバーの皆さんや活動について学んできました。この
法人は10数年前に設立され、障害者の支援や社会の在
り方を良くしてゆくために自分たちの出来る活動をやっ
ておられます。
メンバーの皆さんの心が綺麗なのと、メンバーの人たち
が誰も取り残されずに活動されているのを見ると、ちょ
っと感動するものがありました。
-
NPO法人という一つの組織の中で、愛の実践が具現化さ
れているさまを見ることができたのです。
というのは、社会的な活動をしたり福祉的な活動をした
りするグループはというと、ともすると中心になる人た
ち数人だけが輝いていたり、グループになじめない人が
いたり、なんだか押しつけがましかったり、なかに一人
二人取り仕切っている人がいてその人の機嫌を損ねては
いけなかったりとか、もろもろ面倒くさい事もあるもの
です。
ところが一泊二日で訪問したこのNPOは一緒に居るとメ
ンバー全員が主役という感じが伝わってくるんです。
-
何の主役かというと、自分が自身の人生の主役なんだ、
という感じで、指示されたり命令されたりではなくご
自分の意志で動いている、というふうに見えます。そ
れだけ意思疎通がスムーズなんだと思います。見てい
て気持ちいいのです。
この気持ちよさ、そして一人一人の存在が自然な形で
尊重されている状態はどこから出てくるのだろう、と
考えますと、おそらくは彼らの「社会をもっと良いも
のにしてゆこう」という目的意識から出てきているの
でしょう。
この体験についてはまた機会があれば詳しく報告した
いと思っております。
-
さて、聴覚と意識エネルギーについて、いくつかの私自
身の体験をもとにしてお話してゆきたいと思います。
私達は通常言葉で喋らなければ相手の意志を知ることは
難しいです。
ではその言葉はどうやって学ぶのでしょうか?言葉を知
らない状態で生まれたのに、どうして分からない言葉の
意味が分かるようになるのでしょうか?
人が口から出す音の意味をあれこれと想像してみて、状
況や人の反応から、推理の果てに言葉の意味にたどり着
いているのでしょうか?
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