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業務連絡 3
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たてました。
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>前スレ1000
難しいこと言うひとキター!!
よく分からないけど、千と呼べ!と言ってることだけは理解し
た。
でもね、貴方の本名は多分千尋じゃないからあなたのことを
「千」と呼べと言われてもね。あえて呼ぶなら、「お千さん」。
そして釣り針を垂れずに怪魚を得た私はたぶん太公望以上で
しょうよ。
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>前スレ 999 続き
大きな認識の変化があると、意識の中では自動的に価値観や考
え方が構成され直すらしい。これもまた良く考えてみるとなる
ほどその通りなのです。
そうするとそれまではどうしてもあれが許せないとかこれが我
慢できない。言わずにはおれないけれど言うと争いになるので
じっと我慢していてしんどい。その分心の中では相手をコテン
パンに言い負かせて泣かしてやった!なんて妄想を人間はいつ
もしているものです。いやこんな妄想していたらいけないと思
ってもなかなかやめられないのが自分の心ですね。
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いやいやこのような心ではいけない、なんとか仏のような清ら
かな心を、ってんでエイやっと頑張ってみたり瞑想してみたり
深く自分を振り返ってみたりして浄化して一瞬綺麗な心になっ
たような感覚がして心穏やかになってみたりもいたします。
しかしいけません。次の瞬間にはまた相手のにっくい言葉が心
のなかで蘇ってきたりしてちーんって音が鳴って心の中のボク
シングが再開したりいたします。
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こんなことをしながら人生というものは暮れていってしまう
ものなので、おらハァ〜、何のために生まれてきたんだべ?
って黄昏(たそがれ)てしまうものなんですね。
いやいやお兄さんお姐さん方、それはね、努力の方向が違う
んじゃありませんかい?そんなに力んで肩肘(かたひじ)張
らなくっったってものの見方を変えれば自動的に心安らかに
仏のような心境になりますぜ、ってのが私の発見です。
おや、これもどっかで何度も聞いたような話だ。聞き飽きた
よね。耳にタコができそうな説ですよねぇ。
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しかぁ〜しですね、どっかで聞いた耳タコ話には大きな欠点が
あるんです。それはものの見方を変えるとはどういうことなの
かっていう、一番肝心なところが曖昧すぎるんですね。だから
まぁ世の中にはいろんなものの見方の訓練法みたいなのがあり
まして極端なのになりますと2011年の155スレで登場した数字
のおっちゃんみたいに「全ては虚無だ」みたいなものの見方を
すれば人から何を言われても心動かさなくなるみたいな考えを
する人も出てきてしまいます。
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私は世の中の耳タコ話も一概に否定するつもりはありません。
ものの見方を変えなさい。本当は貴方は周りから多くのものを
与えられていて、貴方が変われば周りも変わってくるんだ、み
たいな教えであってもそれで救われて大きく人生変わって心が
安らかになる人もいるのかもしれません。
しかし私は思うんですけれども、それは心稚(おさな)き人に
限られるんじゃないの?って。様々な人生の矛盾を体験し、そ
れでも人間の本当のあり方を追求してきた人々にとっては、な
かなかそのような教えで納得も安らぎも得られす逆に矛盾する
思いに引き裂かれるんじゃないでしょうかね?
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なぜかというとこの種の耳タコ話には人間に対する本質的な
理解や、こころや意識に対する理解が決定的に欠けているか
もしくは極めて不十分だと思うからです。
自分自身も含めて、人とは如何なるものなのか、この理解が
深まり広がることなくしてこころの苦しみから解き放たれる
ことはないと私は思います。
なぜならこころの苦しみとはこころの矛盾だからです。原因
であるこころの矛盾を解消することなくしてこころの安らぎ
がありうるわけがない。
このことは皆さんよくお分かりでしょう。
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それではこころの矛盾の生じる原因は何か?
それは自分自身を間違って認識し、他者と世界を間違って認識
するところから全ては始まっている、というのが私の発見です。
そしてなぜ自分自身や他者、または他の存在を間違って認識し
てしまうのか。それは自分というものがあまりにも弱くてそ
もそも他者をそのまま認識できるだけの受け皿がないからだ、
ということなのですね。
そのためにとりあえず存在そのものではなく存在の影絵のよ
うなものとか他人が用意した存在の簡易なモデルのようなも
のを採用して自分の心の中に認識することで他の存在を受け
止めようとしているのだ、ということですね。
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おはようございます。
さておなじような内容の話を一ヶ月前から部分的にやっており
ますね。満月の夜に私が何に気がつき、一ヶ月前からの話とど
こに違いがあって意識の中の大きな変化(安定度の向上)が生
じたのかというと、次のようなことなんです。
つまり、個としての意識、存在は初めは非常に弱いものなので
個として存在し続けるためには「受」、すなわち認識能力を下
げざるを得ないのだ、ということなのです。認識能力を下げ、
あまり物事がわからない状態から始めて少しずつ自分を育てて
ゆかないと、すぐに意識は全体に飲み込まれて自分を見失って
しまい、いわば霧消してしまうほかないのですね。
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分かりすぎると相手の感情や想いに飲み込まれてしまう。感受
性の鋭い子どもが、身近にいる両親や昔でいえば子守りをして
くれるおばあちゃんの価値観に飲み込まれて、本当の自分の想
いが何なのかわからなくなってしまう。その結果人生を狂わせ
てしまう、というのはよく見かける話であります。
そのようにならないためにはある程度人の想いに鈍感になり、
自分の想いを優先しながら育ってゆく必要が生まれます。つま
り子どもというのはある程度我が強い方が正常に育ちやすい。
あまりにも聞き分けの良い子どもの場合は、その子の個性がし
っかりしていればいいですがそうでない場合は逆に心配ですね。
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これまで私は法華経の作者の想いと同じように「人というもの
はなぜこうもわかってくれないのか?どうしてどうでも良い方
向にばかり大切なことのように考えて、一番大事なことの方は
顧みないのか」、このような想いでいました。
しかしそうではなかったのだ、なぜわからないのかではなく、
そもそもわからないことがまず人には必要だったのだ、という
ことを納得したのです。
そして「なぜわからないのか」という私の想いの最初にはまず
「怒り」という感情があったことに気づけたのです。
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おそらくこの感情に気づくことが私にとっての大きな課題だっ
たのでしょう。そしてそれに気づいた結果私の意識の中には大
きな変化が、自然と生まれてきた、といえそうです。
つまり「無知への怒り」という戦い破壊しようとする方向性で
はなく、無知を認め尊重しつつ対話して智慧を目指そうという
ような大きな転換ですね。あるがままに認める、という「赦し」
の感情です。
そうした心の中の方向性を決めているのが感情である、という
ことが理解できてきたのです。
結局これが私が以前「感情の問題」と称していたことの本質で
あるといえそうです。
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こうして満月の夜の「受」の発見はさらに「感情」の発見に
つながってまいりました。
その結果私の心の中には世の中の様々な不条理不合理と戦い
格闘するでもなく、またニヒルな傍観者として対するのでも
なく、また彼らの存在を無視して進もうとするのでもなく、
ただ淡々と想いを述べ対話し共に生きることを楽しめば良い
のだ、という認識が自然と生まれてまいりました。
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私自身が個の生命であり、個としての意識進化を目指しており
ます。
そして他者もまた一人一人が個の生命であり、個としての意識
進化を目指している。いま彼らの表面に現れている考えや行動
がどのようなものであろうとも、お互いに「生きたい」、「個
として存在したい」という存在の想いは変わらないはずです。
そして「個」として存在し続けるために「受」を制限し、苦楽
の経験を通して自分の魂を豊かにしようとしているわけですね。
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個は個として自分一人で存在しているわけではありません。
他者がいるから個が個として存在できるわけです。もし他者が
存在しなくて個しかないのであれば、それは個ではなく全であ
ることになってしいますからね。
ですから我と他者との関係性は、存在の本質に関わるものなの
です。
例えば世の中にはよく「お百姓さんや商人や料理人がいて毎日
ご飯を食べることができるのだ」というような共同社会のあり
方から我と他者が切っても切れない関係なのだ、と説明する場
合もあります。しかしそのような利害関係からだけから他者と
の関係を考えるのは大きな見落としがあるのです。
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利害関係を詳しく調べてゆく、という視点は否定しないのです
が、もし我と他者との関係の全てを利害関係で割り切ろうとす
ると問題が生じます。一見最初は調子良く行くことでしょうが
そのうち利益を追求しようとすればするほど思ってもみなかっ
たことで損をしてしまうようなブレーキ現象が次々と現れてし
まうことでしょう。
我と他者との関係は存在の本質に関わるもっと根本的なものな
ので利害関係に全て落とし込めるようなものではないというこ
とです。損をしようが特をしようが我を生かし彼を生かしてゆ
くのです。
ここで生かすと言っているのはもちろん「肉体を生かす」とい
う意味ではありませんね。
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それでは私は存在とはどのようなものと考えているかという
説明をいたしましょう。あくまで今の私が考えている存在に
ついての見解です。
私は存在とは意識であると考えています。
しかしその意識とはどのようなものでありどのような形で存
在しているのか。
私はそれは空間の小さな粒であろうとしか考えられません。
突き詰めて考えてゆくと空間は微小な粒である。そしてその
微小な粒が様々な状態に常に変化しているのだろう。その粒
が個性に目覚めた一つの状態が存在の粒子であり、存在の粒
子が無数に集まったものが霊質や幽質や物質であろう、とい
うのがさっくりとした私の考えであります。
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言い換えると空間には最小単位が存在する。それ一つ一つが
いわば存在の粒子であり、意識を持っている。
個性がなくただ空間としての意識を共有した状態を「無意識」
とよび、個としての意識や個性を持っていない。想いがなく
ただいわば全体の意識の中の大きなうねり小さなかうねりを
感じているだけのようなものだ。
空間の粒が何かのエネルギーを受けて個性に目覚めた時、つ
まり「我」という認識に目覚めた時、意識は自分自身と他者
との区別を認識するようになります。これが存在の粒子です
ね。
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存在の粒子が「想い」を持った時、周囲の存在の粒子は想いに
呼応するのですね。「我」が存在したい、し続けたいという想
いに反応して集中してまいります。
こうして存在の核が形成され、核を中心とした粒子集団は成長
して心、魂の構造を作り出し構造は想いを実現するための機能
を発揮してまいります。
それでは時間ですので失礼します。
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こんにちは。
昨日は朝早くから某福祉事業所を視察に出かけておりました。
無理を承知でお願いしてみたところ快く了承して頂けまして
親切に案内してくださいました。
そこは身体障害や難病などの方を中心に仕事の能力の高い方も
そうでない方も一緒に色々な方が働いておられる先進的な事業
所でした。ゆっくりゆっくり確実に作業をこなしていかれる方、
最新の機器を扱いながら作業を進める方。それぞれの方が自分
に責任の持てる範囲で与えられた仕事をこなし、また自らの能
力を伸ばすことに挑戦する人もいるなど、眺めておりますと未
来の社会のあり方が具現化されたような印象を持ちました。
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私がそこで印象的に感じたのは、一つは職員の方達の考え方、
リーダーの方達のイキイキとした元気の良さ、事業所内の利
用者も含めてのまとまりの良さなどでした。
もう一つは事業所の利用者さんたちの生活のあり方でした。
障害のある方たちが支援学校を卒業してすぐにそうした施設
・事業所に入ってくる。そしてそこでほぼ一生を終える人も
少なくないという現実でした。
私はこの二つをみて人間関係のあり方について大きく感じる
ところがあったのです。
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というのは、人間関係。人と人との関わりとは結局意識のエネ
ルギーの関係であると言い換えてよいと私は思っているのです
が、その意識のエネルギーのあり方を観察し自分で実験してみ
ますと二つのパターンに分けられるのではないか、と思うので
す。
一つは上から下、下から上という上下のエネルギーの循環です。
これは力や能力がある者と足りない者との間に起こる循環現象
です。
そしてもう一つは水平的なエネルギーの循環、これは一対一の
平等な関係性を基本とするエネルギーの循環ですね。
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まるで十字架の形を思わせるこの上下の循環と水平の循環はど
ちらも必要なものですが、そのあり方には注意が必要だと思っ
ています。
私は19日の満月の瞑想(と言うとかっこいいですが実際はゴミ
出しのためにゴミ集積場まで歩きながら存在と意識について考
えていたのです)で存在の弱さ、それがどのように強く進化し
てゆくのか、そしてなぜ進化には「受」を制限しなければいけ
なかったのか、について気がついた。納得がいった、と申し上
げました。
同時に受を制限し相手の心や考えや事情がわからないためにそ
こに様々な苦しみや喜びの感情が湧いてくるのだ、ということに
も気がついたのです。
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全てがわからないために様々な苦しみや喜びが生じる。そして
その喜びや苦しみがあるために全てを理解しようという想いが
生じる、と申し上げたら良いのでしょうか。想い無くして行動
は生まれません。
お腹が空いた、何か食べたいという想いが生じるから仕事が生
まれ社会が発展するのですし、異性が欲しいという想いがある
から家庭が生まれ、子孫が存続します。
こうした本能を基盤とする基本的な想いをベースに存在は行動
を開始し経験を積んで自らの意識を形作ってゆきます。受想行
識ですね。
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おはようございます。
ちょっと話は >12、>13 のあたりに戻ってしまうのですが、
私の意識に大きな変化が生じたというところをもう少し詳し
くご説明しておきます。
私の母は若い頃から認知症的な傾向があったと私の弟は申し
ます。
その話が正しいかどうかは、私は大学入学以来家を離れてお
りましたので判断できません。しかし現在では立派な認知症
患者となってしまいまして「今何時かね」「6時ですよ」
「今何時かね」「6時ですよ」「今‥」というように同じ質問
延々と続けるのが日常になってしまいました。
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この同じ質問を延々と繰り返されるのは結構苦痛なんですね。
二度三度はまだいいのですが、五度も六度もになると顔は笑っ
ても心の中は「いい加減覚えてよ」と思って苛立ってきます。
急速に耳が遠くなってしまって大きな声を出して話さないと
聞こえないのでいつも怒鳴るような感じで話をしなければな
らず、このことがまた小さなイライラを助長してしまいます。
ところが満月の気づきからこのイライラが綺麗さっぱり消え
てしまったんです。考えてみると「なぜ分からない」という
無知への怒りの思いも「なんで何度言っても覚えてくれない」
という小さな怒りも似たようなものですね。
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それでこれまでは何度も同じことを言わされてそれでも覚えて
くれないことに苛立っては、そんな苛立つ自分に残念な思いを
して参りました。
そこでなんとかこの小さな怒りを起こさずに優しく対応しなけ
ればと思うのですが、大きな声を出して返事するたびに自然と
心が荒くなってしまうのです。頭ではいけないとわかっていて
も自分の心が自由になりません。
ところがそのどうしようもないイライラ、小さな怒りがすっぱ
り起こらなくなってしまったんですね。
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しかもそれだけではありません。
なんと満月の翌日の目覚めのすっきり爽やかなこと。それ以来
意識がすっきりと軽くなっているのがはっきりとわかるほど以
前とは違います。なんと、私の心の中で巣食っていた怒りは自
分では全く気が付かなかったのですが、常時ストレスとなり心
の苦しみとなっていた事実に気がついたのです。
人間というものはこのようにして苦しみを作り出しているのか、
ということをはっきりと自覚できたのですね。逃れようのない
人生の苦しみと称するものも、その大半は実は自分自身のここ
ろが生み出したものだと言えるのでしょう。
-
自分の心の中に巣食う怒り、恨み、妬み、足ることを知らぬ
欲望、こうした意識が自分自身の心のストレスとなり自分の
心を暗く重くしてしまっていたのだ、ということですね。
私の場合にはそれは「怒り」だったわけです。
そして自分の中のこうしたいわば心のお荷物に気づいた時、
人間はその気づいた分だけ自由になることができるようで
す。
では私はこうした自分自身を解放し自由にしてゆくために
一体幾つの気づきが必要なのだろうかと訊いてみました。
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そうすると私にとって必要な大きな気づきは六つであり、一つ
は「存在は意識である」という気づき。二つには「意識は自分
自身を守り育てるために『受』を制限している」という気づき。
三つ目は心の中に巣食う「怒り」の気づき。ここまでが現状の
到達点で、残された気づきは後三つ、ということでした。
四つ目は「赦し」に対する気づきでこれはまだ半分しか理解で
きていないという評価です。
五つ目は「恐怖心」でそれは全然理解できていない。
六つ目は現状私にはまだ不明です。
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こんばんは。
今日も塾に教えに向かう途中の車の中で色々考えていたんです
よ。「赦し」とは何なのか。5割しか理解できていないという
残りの5割とはどのようなものなのか。
そうするとだんだん物事の考え方・見方が整理されてきまして
クリアになってきたものがありました。「ん?これは残りの5
割も理解できたのかな?」そう思って確認のために訊いてみた
ら、「8割」という答えが返ってきました。
そこで今日(暦の上では昨日ですが)新たに得た認識を簡単に
ご説明してみます。
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>32
名前欄が抜けてました。
さて、簡単に言えば、「人間生きてるならば他人様に迷惑かけ
るのは当たり前」ということです。生きていて他人に迷惑かけ
ない人間なんて一人もいないじゃないか、という話はよく言わ
れることであります。よく言われて実際その通りだなと思うわ
けですけれど、それなら他人に迷惑かけられて黙っていられる
のか、納得できるのか?と言われると誰しも納得できるはずが
ないですよね。
なんでだよ、バッカヤロー!!ってなるじゃないですか。普通、
怒りが湧いて参りますね。
-
つまりそうは言われても全然納得できません。許せまん、って
ことですね。
では何がわかったかというと、人間はどうやって自分以外のも
のを認識しているのか、ってことなんです。それは他人に声を
かけると返事が返ってきます。声で返事がなくても表情とか動
きとか、なんらかの体のリアクションか、あるいは心に感じる
リアクションがあります。このようにこちらが発したエネルギ
ーに対するリアクションを感じてそのリアクションで色々察し
て理解し認識してゆく、という流れになりますね。
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これを発する方と受ける方の立場を逆転してみますと、相手か
らなんらかの言葉や態度やちょっとした体の動きとか、強い念
のようなものを感じて、ああこの人は私に対してこんな事を思
ったり、あんなことを伝えたいと意図しているんだなと理解す
るわけです。
このように相手から投げ与えられるエネルギー、あるいは自分
が相手に向かって投げたエネルギーが相手から打ち返されて返
ってくるのを受け止めることで、相手の感情を知り、自分が発
したエネルギーがどのようなものだったのか(相手を喜ばせる
ものであったか、怒こらせるものであったか)を知ってゆく、
ということになります。
-
こんにちは。
ここ数日恋愛相談で毎晩長電話をしております。
人間は自分の考え方が当然で正しいものだ、と思っているもの
でして、それは私も全くその通りなんです。ところが人という
ものはしばしば自分とは全く異なった主張や判断をするもので
す。
その変な考え方をするから苦しくなってきたり辛くなってくる
んじゃないの?なんでそんな考え方をしてしまうの?とよく聞
いてみますと、なるほど彼や彼女の考え方はそれはそれで筋が
通っています。しかしやはり私の目から見ると物事の受け止め
方とか、根本的な価値観に問題があると感じます。具体的にい
うと自分自信を好きになれず自分以外のものが好きなんです。
-
はっきり言って、自分自身のことを嫌いなわけです。他人と比
較して自分の劣っているところばかりを強調して自分が嫌いに
なっているんですね。かといって自分が誇れるところとか、自
分が自信を持てるところをあげてみようとしても、実際何一つ
自信を持てるものがない、という現実があります。世の中の大
多数の若者にとってこれが現実だと思うんですね。
他人と比較しよう、他人と比べていいところを見つけようとす
れば、まぁそうなってしまいますよ。何かひとつくらいは‥と
見つけ出すことのできる人もいるとは思いますが、実際どこに
良いところがあるんだろうと途方に暮れる人も多いんです。
-
名前忘れでしたね。
一つくらいは、と自分の心の中でつぶやいたとしても、それを
口に出して言えば、そんなこと、と人から笑われてしまう。だ
から口に出して言うこともできないという人も多いんですね。
世の中は他人との比較の中で物事を捉えようとして、励ますつ
もりで君にもいいところがあるんだよ、というのですが、その
言葉すら当人たちを追い詰めてしまうことがあるんです。
それは自信の根拠そのものが偏っているからです。人間の自信
の根拠を他人と比較しての優劣に求めれば、約半数の人たちは
置き去りにされ、優秀とされたグループも際限のない競争意識
の中に意識を置いてしまうことになってしまいます。
-
実際には己の自信の根拠はなにか外部との比較の中に求めるべ
きものではないんですね。
実は自信は己の存在そのものの中に求めれば良いいんじゃない
でしょうか?我は在る。この事実はどこまで行っても覆すこと
ができない。死のうと生きようとこの事実は変わらない。
在る、ということは感じ、思い、繋がってゆき、学び、作り出
してゆくことである。すっごく単純な事実じゃありませんか。
ところが面白いことに人間はこの単純な事実を受け止め切るこ
とができないようなんですね。そしてああでもないこうでもな
いと考えて他人との比較の中に自分の考えの確かさを感じよう
としてしまうようです。
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他人と比較して自分の方が優れているから、だから自分に自信
が持てた、感じることができた。いい変えれば自分に対する不
安が少し減ったり無くなったりした。と言っているわけですね。
ところがこの考え方は曲者でして、構造的にすごく不安定なん
ですよ。考えや思考にも構造があるんです。不安定な構造は外
部からの衝撃を受けるとすぐ消し飛んでしまうんです。
この考え方は外部との比較に基準を置いているので、外部に追
いこおされるとこれは劣等感を持たないといけない構造になっ
てしまっています。「我在るが故に価値あり。自信あり」って
いう方が桁違い、次元違いに構造が強いんです。
-
なぜならこれは自分自身が「存在する」という単純な事実に
基礎を置いておりますので覆りようがないわけなんです。
そして実は自分自身をよく反省してみますと、自分自身も小
さい頃、幼い頃は単純に誰と比べるでもなく自分に自信を持
っていたのではないでしょうか?逆に生まれた時から自信が
持てなくて不安で不安で仕方なかった‥という方はまずいら
っしゃらないのではないでしょうか?
-
そしていつから周囲と比較することで自信を感じるようになっ
たかと反省してみると、それはたいてい周囲の大人たちのちょ
っとした言葉や喜びや失望を受け取って、ああ、人よりも優れ
ていることは素晴らしいことなんだな、とか劣っていることは
つまらないことなんだなと察していったり、あるいは言葉によ
り「他人に負けてはいけないよ」などと直接意識づけられたり
しているのではないでしょうか。
だから他人と比較する価値観は、95%くらいは周囲の環境から
後天的に吸収した価値観と言えるのじゃないかと思います。
-
こんにちは。
毎日のように昨晩も恋愛相談に乗っていたわけですが、相談者
の意識、そしてそれに対する私の意識を精査する中で、私自身
が認識すべき六つ目の課題がだんだん明らかになってきつつあ
るように思います。
それは意識の中のエネルギーの動き方、働き方であり、端的に
言えば「執着とは何か。それはどのように心の中、意識の中で
働いているのか」を理解することである、と言い換えてもよさ
そうです。
敵を撃破するにはまず捜索、次に照準、そして撃破という段階
を経るわけですが、とりあえず捜索までは終わったですね。
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そうしますと私の意識世界の探索もそろそろ佳境に入ってきた
のかなぁという感じがいたします。
意識世界の探索と申しますととかくあの世があるのかないのか
とか、高次元世界がどうなっているのかとか、高次元世界から
のメッセージがどうだとか、宇宙連合が銀河連合がとかいう話
になりがちなんですが、まぁそれはそれであたしにはあまり関
係ない話かな。我とはなんぞや?我は何を思い何を考えている
のか、それはなにゆえなのか?それを知らずしてああだこうだ
と先走っても仕方ないように思えます。
-
まず汝自身を知れ、なんですね。
そこでこの12月は自分を知る強化月間にして自分自身の想念
というエネルギーの動きを見てゆきたいと思っています。
自分自身の魂は「我あり」という最初の思いが気の遠くなる
ような年月をかけて営々と築き上げた最高の創造物であるわ
けですよ。
それは「想い」というエネルギーから始まり、想いが「体」を
得ることで客観化が可能になります。体を通して想いを現実化
してゆくことで新たな認識を獲得し、新たな認識によって意識
を編みエネルギー構造を作り込んできたわけです。
これが受想行識の仕組み、サイクルですね。
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いま私にとっては新たな認識を獲得するチャンスが巡ってきた。
つまりようやく捜索レーダーの性能向上が果たせて今まで見え
てなかった敵ステルス標的が見え始めたワケですね。おいおい
そういうことかよ、あっちにウヨウヨ、こっちにウヨウヨ、心
中の国土にまで敵ステルスの侵入を許していたのかよ、ってと
ころまで気がついてきたわけなんです。
まぁあとは標的→撃破すれば良いので楽しみなことです。
では失礼。
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初めまして。先日10年越しに155スレの存在を知った者です。
155スレその19や、>>18 - >>20 の
「存在は意識である」、この気づきは物理学の"素領域理論"と非常に親和性が高いように思われますがいかがでしょうか?
ノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹博士が晩年に研究した理論だそうです。
最近では保江邦夫博士が『神の物理学』の題で素領域理論の本を著しています。
自分は物理に疎く、また上記本も未読なので恐縮なのですが...
スピリチュアルブログを覗くと、この理論を(守護霊の方が)評して曰く、
「体主霊従の世界観から霊主体従の世界観へ転換することができる」とのことで。
155さんの探求の糧になればと思います。
また、「空間(と時間)に最小単位を設定する」というアイディアでは”ループ量子重力理論”にも等しいものがあるようです。
こちらは超弦理論と並んで大統一理論の最有力候補と目される理論で、カルロ・ロヴェッリという方が第一人者なのだとか。
(邦訳本は『すごい物理学講義』など)
自分の勉強が足らず伝聞の域を出ないのが申し訳ないのですが、良ければぜひ。
-
>47
こんにちは。
木曜日に投稿を拝見したのですが、私の理解が行き届かなかっ
たところがあったので考えているうちに時間が経ってしまいま
した。ある方のスピリチュアルブログで素領域理論のことを取
り上げて評価していたということなんですね?
私は155スレでは蘇領域理論のことは発言していないように思
うのですが(忘れやすいのであまり良く覚えてはいないのです
が)、その理論の存在は存じております。そしてかねがねなぜ
この理論が十分発展しないのか疑問に思っております。
-
私は文化系の学生でしたので、もちろん素領域理論をそれほ
ど知っているわけでも理解しているわけでもありません。名
前を知っていて新聞記事程度の知識があるに過ぎません。
ところが47氏に指摘されて検索してみると空間と存在に関す
る基本的な考え方があまりにも私の考え方と似ているのに驚
きました。もちろん湯川先生の理論は物理学者としての洞察
力を基盤とした理論であり、私の考えは体験を元として意識
のあり方、存在についての考察を進めた結果、こうでなけれ
ばおかしい、という納得を追求したものですから立脚点がか
なり違います。
-
しかしながら私の印象からすると「同じこと言ってるやん」と
言いたくなるほど、言葉の説明としてそっくりの内容になって
しまうらしいことは興味深いことだと思います。
実はこの度の存在と意識についての私の考えについては説明を
できるだけ簡便にして詳しい話は次の機会に譲ろうと思ってい
ました。
話し出すとすっかり長くなってしまう恐れがあったからです。
それよりも、そこはとりあえず簡単に話を進めておいて、その
次の、そこからどのように物事が展開してゆくのかを先に詳し
く説明したいと思ったからです。
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