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正史・オスティア王史

15老仙 ◆ZSHYYUeMmQ:2011/10/16(日) 11:13:38
オスティア王国正史
『浮雲物語』

瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ
王が旧世界で詠まれた歌である。

【王の生い立ち】
 オスティア国を建国し、絶対的な権力を持った王・アイギス・テルシテスはこの世界の生まれではない。
彼の言う「旧世界(一度死ぬ前の前世)」でその国の王の嫡子として生を受けた。名は顕仁。この名を王以外が使うことは禁忌である。
王はかの国の文化である和歌や蹴鞠といった物に才能を発揮され、王としての資質を備えていらっしゃった。
まもなく王は王位に就いたがまもなく異母兄弟である近衛に位を譲り自らはその上の上皇に登り父君鳥羽院はその上の一院、アイギス王は新院と呼ばれた。
(注:院は天皇の後兼任として政治を行う)
何の落ち度もなく正当なる王位から退くことになった王は不満を募らせなさった。
それから月日が流れ、近衛天皇は17歳の若さで崩御された。新院(アイギス王)は次こそ子息である重仁親王こそ天皇の位に登るだろうと思っていた。
世間の者たち一般も皆そう思っていたものの、次の王位に就いたのは同母弟の後白河院であった。新院がお怒りなさるのは当然であった。
 
 かの国の年号で1156年(保元元年)、父君の鳥羽院は体調がすぐれず、7月にお隠れなさった。
これを好機と見た新院は、自らに近き臣らと御謀反を思い立ち、現オスティア国重臣である藤原頼長卿や源為義将軍らを集め協議を重ねた。
しかし新院陛下らは後白河方についた為義将軍の子・義朝、平忠正将軍の甥である清盛の夜襲により大敗なさり軍は崩壊する。
源為朝将軍の奮闘は大いに敵を恐れさせたが、力及ばなかった。頼長公始め多くの者が亡くなる、または処刑され新院のお嘆きは大きなものであった。
 
 まもなく院は遠方へ島流しとされ、讃岐院と呼ばれそこで来世での安息と戦死者の供養を願い御写経なさった。為朝将軍は武勇を惜しまれ、腕を折られて同じく島流しとされた。(院とは別の島)
讃岐院は『五部大乗経』を完成させ、それを寺に納めてくれと朝廷に願った。ところが実弟である後白河天皇はそれを破り送り返した。
院は怒り、己の血で写経に呪詛の言を書き、それから夜叉のようなお姿になられた。この世への恨みを重ねながら、その島でお亡くなりになった。
一連の出来事による強い思いが院をこの世へ転生させたのである。
 
 しばし讃岐院は国を乱した罪人として扱われたが、その後国では不穏な事件が次々と起こり、これは院と頼長卿の呪いと恐れられた。
後白河に近い者たちが次々と亡くなるなど、その力は大いなるものであった。
後白河は遂に鎮魂を願ってそれまで讃岐院と呼ばれた王を崇徳院と改め、頼長卿には最高官である太政大臣の位を送られた。

(これはまだ序章、ここからがオスティアの歴史となります。)
(むこうで老仙が言っていたことの意味は、自分もスレの参加者であり、傍観者ではないので完全に中立に書くのはムリだということです。)
(多少の偏向や予測の部分もありますのでお許しください。)


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