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1475曳馬野:2016/02/12(金) 23:41:25 ID:WCwkcPdg
26才にして法皇が生涯の師と仰ぐことになる宗峰妙超禅師(大徳寺開山・大灯国師)に引見され、以降、法義を聴聞するなかでますます禅に傾斜され、禅の修行に打ち込まれるようになった。

ある雪の日に、聴法のため大徳寺に向かおうとされた法皇を、健康を案じた家臣が引き止めようとした時、「火の中をわけてさえ聞く法の道、雨風雪はもののかずかは」と詠まれ、断固として志を変えられなかったと言う。

法皇の求道心の深さを伺うことができよう。法皇、大灯国師に参じて13年後の39才にして大悟された。妙心寺は、大灯国師(だいとうこくし)から印可され、衣鉢(えはつ)を伝えられた花園法皇は、そのことへの報恩謝徳、仏法興隆のために、1342年花園の離宮を寄捨して禅寺としました。

妙心寺は、臨済宗妙心寺派の大本山であり、1337(延元2)年、開基・花園天皇のご発願により、関山慧玄(無相大師)を開山として1338〜1342(暦応年中)年、花園離宮を禅寺にあらため開創された。http://www.hanazono.ac.jp/zenbukkyo/rinzai

前に後奈良天皇が大休宗林禅師について大悟されたことを書いた。こうして二人の天皇が禅の悟りを得ている。また南北朝の中心人物の後醍醐天皇も南浦紹明(大応国師)から宗峰妙超(大灯国師)を経て関山慧玄へ続く法系「応灯関」に関係されている。

大応国師の国師号は日本で初めて贈られたものである。こうした禅の世界と親しくされてきた天皇にあって、戦争反対の心は当たり前であるのに、明治以後の政府により作られた国体維持の思想の下、戦争は当たり前の思想に染まることは天皇の意志に反するものでしょう。


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