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独占板
4906
:
シャンソン
:2015/10/23(金) 20:20:06 ID:U14Q8fEE
映画「シークレット・サンシャイン」 監督:イ・チャンドン
●ありふれた悲劇に見舞われた女の尋常ではない絶望
本作の舞台は、韓国にある小さな町、密陽である。作品のタイトルである「シークレット・サンシャイン」は
この地名から取られている。アメリカ版ブルーレイの特典映像として収められたイ・チャンドン監督のインタビューによれば、
密陽は韓国のどこにでもあるような、ありふれた町である。監督は本作で、ありふれた町に住むありふれた人々の、ありふれた日常を
描きたかったのだという。実際、キャストの多くは、密陽市近辺から集められた地元のノンアクター(素人)を起用している。
僕はこのインタビューを観たとき、かなり意外な感じを抱いた。なぜなら「ありふれた日常」と聞いて連想するのは、例えば小津安二郎やエリック・ロメールなどの
作品で描かれる世界であり、本作で描かれたような「幼い息子の誘拐殺人事件」などではないからだ。
実際、主人公のシネ(チョン・ドヨン)が経験させられる出来事のあれこれは、彼女にとっては紛れもなく「悪夢」であり「非日常」であろう。それをなぜイ監督は「ありふれた日常」
などと表現したのか。僕は混乱させられたのである。
しかし、よくよく考えれば、たしかにシネが見舞われたのは「ありふれた悲劇」であり、私たちの日常の一部なのかもしれない。「カネ目的の誘拐殺人事件」など、別に珍しくもなんともない、
陳腐といってもよい犯罪だからである。実際、シネ以外の登場人物の日常生活は、この事件によってほとんど何の影響も受けない。事件後も文字通り「普段通り」の呑気で平穏な時間が流れ続ける。それは、
シネに想いを寄せるジョンチャン(ソン・ガンホ)や、シネが藁をもすがる思いで救いを求めた教会の人々でさえも同じこと。所詮は「他人事」なのである。
だからこそ、シネと周囲の間には埋めようのない深い断絶が生じ、彼女の孤独と絶望と悲劇性がこの上なく高まっていくのである。
そもそもシネと彼女の息子に災厄が降りかかったのも、私たちの日常にありふれた些細な「見栄」が原因であった。首都ソウルから息子と一緒に密陽へ移住したシネは、自らを「ありふれた人間」とは思いたくない
「ありふれた人間」である。彼女は密陽の人間に対して、都会人特有の軽い軽蔑心を抱いており、そのことが原因であれこれ噂を立てられたりする。シネもそれに負けじと自分を大きく見せたがり、金持ちのフリをして不動産を物色したりする。
人間であれば誰でも経験するような、たわいもない虚栄心である。ところが、シネの場合はそれが仇となり、愛する息子を誘拐され、殺されてしまうのだ。
ありふれた日常のありふれた虚栄心が、突如として尋常ならざる悲劇の入り口になる。
イ監督は、私たちの日常に潜むそのような落とし穴を、丹念に、繊細に、そして冷徹に描き出す。
そしてチョン・ドヨンの全身を使った演技は、演技とは思えぬほどの説得力を持って、観る者に彼女の慟哭と精神の崩壊を体感させるのだ。
息子を殺されて気も狂わんばかりのシネは、以前はバカにしていた隣人の誘いに応じて、キリスト教の教会に救いを求める。そして教会での活動に
没頭することで、かろうじて精神の均衡を取り戻す。その結果、彼女は神の教えにしたがって、息子を殺した究極の「敵」を愛し赦そうと決意する。そのため、
刑務所に収監されている犯人に直接会いに行き、「あなたを赦します」と告げる。
凡庸なありふれた作品であれば、そこで犯人も涙を流してシネに赦しを乞い、切なくも心温まるハッピーエンディングを提供したことであろう。
シネ自身も、そういう展開を期待していたのではあるまいか。ところが、である。
シネの本当の絶望と孤独は、この瞬間から始まる。あろうことか犯人は、すでにキリスト教に帰依しており、満ち足りた表情で「罪深い私も、神に赦されたお蔭で、
心の平和を得ています。あなたをここへ導いたのも、きっと神の御心でしょう」とシネに告げる。
犯人はシネが赦すより先に、神に赦されていたのだ。その衝撃たるや!
シネは刑務所の外へ出るや、あまりのショックと事態の受け入れ難さに卒倒してしまう。しかしシネの付き添いとしてついてきたジョンチャンや教会の女性たちは戸惑い、
いったい何が起きたのか理解できない。それもそのはず、シネは犯人を赦しに行き、犯人はすでに神によって赦されていたわけだから、外面的には「すべてうまくいった」はずだったのである。
だが、その後のシネは、本格的に不幸のどん底へ落ちていく。己を裏切った神を憎み、世間を呪う彼女は、復讐の鬼になっていく。それは彼女の精神と肉体をますます蝕んでいき、ついには正気を失わせるのだ。
人間が壊れていく過程をこれほど正確に描写した映画を、僕は知らない。
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