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独占板

2233シャンソン:2015/04/16(木) 15:54:45 ID:W1YhgvQQ
   平和憲法の構想は一九四五年、ポツダムで作られた

 ベルリンからアウトバーンを車で走り、一時間もすると、かつてプロイセン王国の居城都市だったポツダムに着いた。
壮麗な宮殿や教会が残る歴史的な町には、夏の午後にしては涼しい風が吹き、どこからか鐘の音が聞えていた。
 ポツダムには、ドイツの現状についてテレビ番組を作ることになり、取材の途中で立ち寄った。ヒットラーが収集した絵の展覧会があるというので
やってきたのである。このポツダムの辺りは、ロシアの大軍がオーデルナイセ戦を超え、雪崩のようにベルリンへ押し寄せたため、辺り一帯が破壊つくされたというが、
ポツダムはその戦いと略奪から逃れた。

 一九四五年七月十七日からこのポツダムで、日本の命運を決めるアメリカ、イギリス、ソビエトの首脳による首脳会談が開かれた。この会議についてチャーチル首相は
「ターミナルになる」、つまり第二次大戦の終着駅になると述べている。
 ポツダム首脳会談の課題は、すでに降伏したドイツをどうするか、依然として戦っている日本を制圧したあと、天皇制をどうするか、そしてアメリカが開発した核爆弾をどう扱うかという
問題だった。会議は二週間にわたって続けられ、七月二十六日にポツダム宣言が世界に向けて発表された。

 日本では憲法が占領軍によって与えられたというのが一般的な理解だが、実際には昭和憲法は、まだ日本との戦いが終わっていない、しかも原爆が日本に投下される前に、その骨格が決まっていたのである。
一九四五年七月といえば、硫黄島や沖縄がアメリカ軍の手に落ち、戦争が一段落したと思われた頃だったが、アメリカの指導者や軍の首脳は、日本側がくり出したカミカゼ特攻作戦には驚愕していた。
日本本土上陸作戦を行えば、甚大な損害を覚悟しなければならないと考えていた。

 ポツダム首脳会談は、日本との戦争が最終的にどのような形で終結するか分からない状況のもとで、戦争後の日本のあり方を決めようというものだった。このときの資料を読むと、連合国側の指導者たちは、日本を民主化し、
国際社会の一員となるような、安全な国にしようと考えていたことが分かる。
戦後の日本に対する基本的な政策は、戦争指導者を取り除き、天皇陛下を中心に新しい指導者によって日本を動かすというものだった。

 ポツダムに集まった連合国の指導者たちは、戦争に疲れていた。戦争が終わった後、自分たちの力で直接日本を動かそうという気にはなれなかったと思われる。この点を日本の指導者たちは、情報がないこともあり、まったく見ていなかったようである。
このあと詳しくお伝えするが、マッカーサー司令部の憲法作成担当者や政治担当のスタッフとのインタビューで明らかなように、日本側は戦争に敗れたあとただ一つ、天皇制を維持することだけを考えていた。
 結論を先に言ってしまうことになるが、日本に与えられた憲法は、日本に天皇制を維持させる代わりに軍事力を放棄させ、戦争に反対した政治家たちを集めた国会によって日本を動かすことが目的だった。

 『アメリカが日本に「昭和憲法」を与えた真相』 日高義樹 著


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