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本流対策室/5
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トンチンカン様
トンチンカン様ー
武蔵の悟り・・「無構えの構え」
・『雅春先生が《一念不生のところに真実生命の動くを見たるのが盤珪なり。
一念だにあらば仏心かくるる也。一念とは智慧の樹の実也。智慧の樹の実を食べれば堕地獄なり。》
・「一念」とは<構え>であり、「仏心」とは<本来の力>・・と解釈できないでしょう
か?
・「私たちが自分で生きよう、自分でやろうと力むと、私たち本来の力は発揮できません」
「自分で・・」と考えるのが<一念>であり、「智慧の樹の実」なり・・?
・「一念」を捨て、全身全霊、神様に 任せきる その時に、本来の「神の子」としての
素晴らしい力が発揮されるのでは・・・
志恩ー
なるほど、トンチンカン様が、ご指摘のように、
雅春先生は、「一念」というのは、「智慧の樹の実」と言われていますね。
自分の思いで、念ずる。。ということは、「智慧の樹の実を食べることだ」という意味でしょうね。
私の取り方が、間違っていたようです。ご指摘、ありがとうございます。
で、私が、色々と盤珪禅師の説法や言葉を調べてみましたところ、
盤珪禅師が言っておられるのは、
つまり、現象世界を肉体を持って生きている人間というものは、放っておけば唯物思想やら、別の方向に、
傾いていってしまう危険性があるものなのであるから、本来の、仏心を忘れぬように、と、一念とは、
心せよ、という意味の戒めのための言葉のようなんです。
例えば、(「大乗仏教、空に徹する」によりますと)
{人はただ 一念貧私(とんし)なれば すなわち剛を銷(け)して 柔となし、
智を塞(ふさ)ぎて 昏(こん)となし、恩を変じて惨(さん)となし、潔(けつ)を染(そ)めて汚(お)となして、
一生の人品を 懐了(かいりょう)す。故に古人、貧(むさぼ)らざるをもって 宝となすは、
一世に 度越(どえつ)する所以(ゆえん)なり。}
上記の「一念 貧私(とんし)」という意味は
…貪りが、ありますと、せっかく強い意志をもって何かをやろうと思っても、
それが弱くなってしまいますし、せっかく知恵が磨かれてもそれがダメになってしまいますし、
せっかく恩愛の気持をもっても、残酷な心に変わってしまいますし、
清らかな清廉潔白な気持をもっていても 汚れた心になってしまう、と。
一念、貪るということによって人間の品性をダメにしてしまう、ということなんですね。
貪らないことが宝だ、と。言っているわけですね。
仏教は、貪欲の教えではなくて、満ち足りた知足(ちそく)の教えというのが、これからは重要になってくる。
知足の教えですと、人間は感謝の気持ちをもって生きなければならない、
という気持にもなるんですね。人様によって自分も生かされている、というふうに考えれば、
人様に感謝したい、という気持が起こってくると思うんですあります。
それで、大乗仏教が説いた空の教え、あるいは縁起の教えということが、非常に大きな意味をもってくる、と思うんですね。
そういう意味で再認識して頂く必要があるんではないか、というふうに思います。
志恩ー
でも、私は、仏教のことは、わかりませんので、
きっと、私の受け取り方が、間違っているのだと思います。
本流の大幹部の皆様のほうが、お詳しいでしょうから、また、
教えて下さいますようにお願いします。
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