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本流対策室/5
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釈尊が迦葉に粘華をしてそして「吾に涅槃妙心、実相無相、微妙の法門有り。これを摩訶迦葉に授く」というても、なにももらうものはないんです。なんじゃ、ちゃんとしてるじゃないか、
ということを知ったんです。釈尊と同じように、自分もちゃんと、その通りじゃないかという事が自覚ができて、使い物になったところを「嗣法」と云うんです。それを授けた、
とこういうことなんです。こういうふうな不伝の、自知を得るのみになってきますと、「驀然として打発せば」ということですね。こういう境界になった、そのところから、そのまんまスパッと
でていきゃいいんです。ところが、すぐに従前の意識の上に立つ。それで、二重の苦労があるんです。そこの様子を、ここで「驀然として打発せば」という、このまんまに、パッと脱退に出て、
事を成して御覧なさい。そうすると、「天を驚かし地を動ぜん」人がびっくりするようなことが出てくる。いま空劫の「無」の字を見せてほしいというてみても、すぐ出て来るんです。
宇宙を、このままなくするということだってできる。手つかずに、なくするといえこともできる。そういうふうなことを、いうたりやったりすると、どういうことじゃろうという気が起きてくる。
やはり「天を驚かし地を動ずる」という様子です。それの形容です。「関」という人の立派な大刀、青竜刀といいますかね、そういう将軍の刀を奪っておる。「奪い得て手に入るるが如く」逆にです、
今度は。今までは人の、向こうのもののために、散々な目にやられておったんですけども、今度は、逆に、こっちの方から、その刀をつかうところです。その刀の使いぶりを、
「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し」血を見るということじゃないんです。便利なものです。いつでも。いつでも、すぐにものと自分が一如になって、いつも死んでるんです。
どんなものだって、ご覧なさい、みんな、そのものに同化されてしまっておる。その様子を強く形容して「仏に逢うては仏を殺し」と、こういうふうな形容をされた。
誤って、血を見ることではないんですね。祖師も、仏も、眼中にない。邪魔にならんということです。気にかからんようになる。そういう力を得るもんですから、それで、
「生死岸頭に於いて大自在を得」生きる時にあたっても、死に処して、死ぬるのに別に問題はない。生は生なり、死は死なりです。人間か、生とか死とかいって騒いでいるのは、
現在のこの心身を認めたからです。この心身を認めておいて、この心身が駄目なんだ云う。そういうことで、問題になっとるだけです。認めさえしなけりゃ、別なことはないんです。
この心身が、問題になるからです。ほかのものを見てごらんなさい。これを抜きにして、ほかのものを見てごらんなさい。岡目八目ということがある通り、他人のことならよう分かるんです。
こと自分の問題になると、何らかの欲望が加わるから、そこでどうしても思うようにいかんだけなんです。平素何事もない。それだから生活が出来ておる。畳の上を歩いたって、一つも問題がないから、
「行かんと要せば即ち行き、座さんと要せば即ち坐す」その通りです。生とも死ともない。こういうふうな境界になりますから、「六道四生の中に向かって、遊戯三昧ならん」ですね。
どんな世界へ入って行ってみても、地獄の底に行けば地獄の底。なんてことはない。それじゃからこの前も話したように、戦争ということだって、自分自身の中に混乱があるからです。
それじゃから戦争が起きるんです。ここにありますように「生死岸頭に於いて大自在を得」体の人になって、「六道四生の中に向かって、遊戯三昧」六道の中、地獄、餓鬼、畜生、修羅という、
この中に入っていきますと、それが気になる。気になるものがあると云うことは、自分の中に混乱がある通りに、その混乱が、すぐに社会の混乱になる。
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