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Web誌友会 板/2

963復興G:2013/05/05(日) 20:27:02 ID:AB6RqYXc

<神示講義・自覚の巻『到彼岸の神示』より 謹写つづき>

 「神の子で、神に生かされているのが実相なら、神に呼びかけて神に頼って起き上ってみよう」と篠崎さんは考えて、寝たまま合掌して一心に祈ったのであります。

 「神よ、御心ならば私を起たしめ給え」
 と繰返し念じていると、不思議なことに、今まで冷たかった足先が電流が通ったようにピリピリとして、急に想像もしなかった力が籠って来たような気持がして、何だか立てそうな気がして来たのです。

 「戦場で死んでいても仕方がなかった自分ではないか、もし急に起ち上って死んでも故国日本で死んだら本望ではないか!」
 こう思って篠崎さんは背水の陣を布(し)いた気持で寝台の上に起ち上ったのだ。

 眼がくらみ耳は鳴り、寝台から板の間に下りたとき本当に足がついているのかどうか解らなかった。しかし「立てた。
 本当に立った」と思うと、「ああ、ありがとうございます」と自然に感謝の念が浮んで来ました。
 一歩二歩と歩けた時の悦びは何にもたとえられぬものであって、篠崎さんは
 「有りがとうこざいます。有りがとうございます」
 と泣いてしまった。

 それから急に篠崎さんは体力を恢復し、今ではその曲らなかった脚が完全に曲げられるようになり、ちゃんと正坐して神想観ができるようになっているのであります。

 読者はこの重傷の篠崎さんの肉体が、完全に恢復されたことを大変なお蔭だとお考えになるでしょうが、肉体が恢復したのは、篠崎さんが「人間・神の子」の正しき信仰を得られ、「背水の陣を布く」という生活と禅の一致の生活態度を獲得し、更に普通の人ならば、両脚が自由に歩けても、それは「当り前」のことであって別に感謝の念が起らないのでありますが、その「当り前」のことが、有りがたくて泣けるほどに感謝できる心境になられたからです。

 宗教の御利益というのは肉体が治るよりも、このように心が一変することなのです。

 そこで此の神示に就いて考えて見て下さい。

 神様は「吾が臨(きた)れるは物のためではない、生命のためである。肉のためではない、霊のためである」とお示しになっているのであります。

 神様は肉体的にもお蔭を与えておられるけれども、それは「肉体は心の影である」という真理を知らせるための実験みたいなものに過ぎないのであります。

 イエスが二千年前に多くの奇蹟をあらわして多くの病人をいやし、ヤイロの娘やラザロを死より甦らしめられましたが、その癒された人も、甦らされた人も、結局はその肉体は死滅して今は存在しないのであります。
 肉体的方面からのみ言いますならば、「死」はイエスの奇蹟に打ち勝ったとも言えるのであります。

 併し神は、肉体を癒すのはその目的ではない、魂が真理に目覚めて向上することであります。「肉体が治った」と言ってその肉体のことだけで神に感謝しているのなら、やがて誰でも其の肉体が死ぬ時が来る。その時に感謝し得なくなるから、魂は永遠に救われたという訳には行きません。

 肉体の恢復を契機として、人間は神の子であって、霊的存在であると気付き、「永遠の生命」をさとり、現象の消長、盛衰、変遷に引っかからず、常に感謝の心境になれることこそ、神から人間に与えられた本当の救いなのであります。
<つづく>


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