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Web誌友会 板/2

962復興G:2013/05/05(日) 20:26:18 ID:AB6RqYXc

<神示講義・自覚の巻『到彼岸の神示』より 謹写つづき>

 併し篠崎さんの信念の崩れる時が来たのです。
 それは母親が昭和十八年一月十日に死亡したことでした。
 それまでは篠崎さんの参加する戦闘には、部隊の皆なが不思議がる程負傷者がなかったのに、四月には中隊長が其の部隊で戦死しました。その戦闘には篠崎さんは残留部隊に入っていて戦闘に参加しなかったのでしたが、中隊長の戦死後、五月に「おのれ仇討(かたきう)ちだ」と決意して勇戦奮闘、最後の突撃というとき、篠崎さんは、思わず、「お母さん、私は此処で見事に戦死いたします」と心で叫んで敵陣におどり込んだのです。

 今までは「私には断じて弾丸は中(あた)らぬ」という信念があった、その間は弾丸が雨霰(あられ)と降って来ても中らなかったのに、その信念がくだけると「見事に戦死いたします」などと心に叫ぶようになったのです。
 そして「おのれ仇討ちだ」などと、害悪の精神を起すと大調和の精神が破れますから弾丸に中り易くなるのです。そう思った其の瞬間、炸裂(さくれつ)する敵の砲弾に篠崎さんは一間(いっけん)半も吹きとばされ右大腿部に幅十二センチ、長さ二十センチの大穴が開(あ)いて骨がくだけ完全に骨折したため太腿(ふともも)から先の脚部はブラブラになってしまったのでした。

 それでも死ななかったのは携帯していた『甘露の法雨』のお守のおかげだと後から顧みて篠崎さんは言われます。

 そのような重傷を受けながら、しかも直ぐに手当を施されず、四日間も戸板に乗せて搬(はこ)ばれて、やつと野戦病院へたどりついたときには、充分の手当が施されていない傷口は、古くなった鮪(まぐろ)の刺身のようにどす黒くなり既に腐敗しかけているのでした。

 野戦病院では大手術は不能であるというので、直ちに済南陸軍病院へ更送されましたが、軍医は、「此の脚は一時も早く切断せぬと生命(いのち)が無い」と言うのでしたが、篠崎さんは、さすがは親孝行な人です。
 「親から貰った大切な脚一本失ってはすみません。死ぬにしても今更隻脚になっては死にたくない」と強く強く希望をのべましたので、軍医もやっと納得して、北京陸軍病院の骨折専門の室へ更送され其処で接骨の手術を受けたが、長時間にわたって毛布を二枚敷いた上に寝かされ、絶対動いては骨が接着しないと言われ、それを耐えしのぶのは死よりもひどい苦しみでした。

 「戦死した方がよかった」と篠崎さんの心には自分の不幸を悲しむ思いが繰返し繰返し起って来るのでした。悲しみは「水」に変化するのです。やがて右肋膜に水がたまって大きな注射針のようなもので三度も水を吸い取っても、またしても溜って来るのでした。

 ついに内地送還となり、小倉病院に落著いたとき、伊予上野市にいられる生長の家の地方講師坪内正一先生が篠崎さんの叔父さんだったので、この先生が病院へ見舞に来てくれました。そのとき坪内先生がはじめて生長の家の教えを篠崎さんに聴かせてくれたのです。

 「人間は神の子であって病気や不完全はない。肉体は本来無い、それは想念の影である。傷ついて起ち上れないと思っている限りは起ち上れない。現象の不完全さを見ず、本来完全なる“実相の自分”自由に脚の動く自分を観て立ち上るようにしなさい。」

 こう坪内先生は言われて、篠崎さんの背に手を入れて
 「起きられるから起きて見なさい」
 と言われた。

 その頃篠崎さんは衰弱の極に達して骨と皮ばかりで、もうこれ以上は骨が邪魔して痩せられない状態で、脚も長期間固定させていたから筋肉は退行性萎縮で動かないのも当り前でした。篠崎さんは坪内先生に起しかけられたが、半分位起きたとき目が廻りそうになったので、直ぐ寝させて貰うより仕方がありませんでした。

 坪内先生がお婦りになった後で、篠崎さんは先生から教えられた生長の家の真理を静かに反芻して考えました。

 「今私は起ち上らなかったら生きる事は出来ない。今、私は絶体絶命の境に置かれているのだ。人間が神の子で本当に病気が無いのなら、起きられる筈だ。起きて見よう」と思った。
<つづく>


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