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Web誌友会 板/2

554復興G:2013/03/12(火) 07:50:38 ID:AB6RqYXc

<つづき>
(中略)
 谷口雅春先生著『神と偕に生きる真理365章』83頁〜84頁には、

< パウロはこうして、「本当の我」と「我が中(うち)に宿る罪」〈過去の業(ごう=ワザ)の集積である運動慣性〉とを分離することに成功したのである。(略)

 このパウロの自己分析による「本当の自分」の発見が、宗教的悟りの要諦であるのである。私が時々コップの中の水の譬喩をもって、「本当の自分」のことを修行者にわかり易く説明することにしているのは次のようにである。――

「ここに透明なコップがあって澄明な純粋の水が入っているとする。この水の中に一つまみの泥を入れると、水は不透明になる。この時、人は“水が濁った”というのである。併し本当は水は濁っていない。水は依然としてH2Oの化学式をもった澄明な純粋の水である。濁っているのは水そのものではなくて、泥が濁っているのである。水は泥の濁りと何の関係もない。それだから漉器(こしき)で泥を漉し去れば、あとには依然として純粋な水があるのである。それと同じく “人間・神の子”の完全な実相は、どんな汚れた罪人のように見える人に於いても、変ることなく、円満な実相そのままである」>

 谷口雅春先生は、この純水のような実相の日本国を観じ、泥は水ではない、業は「人間」ではないように、真の「日本」は侵略していない、起こるべくして起こった戦争は、人類の業のなせるところである――と断じていられるのである。表面のお言葉の奥にある、先生の立っていらっしゃるところに立って、このお言葉をしっかと戴かねばならぬと思う。

 しかしながら、前掲書八十六頁に、

< 聖経に「生命の実相を知るものは因縁を超越して生命本来の歪みなき円相的自由を獲得せん」と示されているのであるから、どんな事をしても、超越すればよいと、多寡をくくって、無分別にも色々の悪業を平気でやる人がもしあるならば、その人は「生命の実相」を本当には知っていない人である。それだからその人は「生命の実相を知る者は因縁を超越して……」の恩典に浴することのできない人たちである。

 どんな小さな行為でも、それを為すことは業であり、因縁因果の世界に、業因を積み重ねつつあるのである。業には善業も悪業もあるが、どんな小さな善業でも毎日それを怠らずに積み重ねて往ったならば、「生命の実相」の悟りに入り、ついに因縁を超越することができるのである。>

 と書かれている。

 日本が戦争に敗れて劣等感や罪の意識に打ちひしがれていたときに、谷口雅春先生は声を大にして「日本は侵略国ではない」と叫ばれた。それによって私たちは希望と誇りをもって懸命に働いてきた結果、現在の日本の地位を築き上げることができた。そうしてここまで大きくなった日本が、さらに本来の神武建国の理想である「八紘一宇」――世界の真の平和実現の大きな使命を果たすためには、真の「大懺悔」「生まれ更わり」が必要なのである。それにはまず、実相と現象、偽我と真我の甄別をして、偽我を否定し、真我をこそ光り輝かさなければならないのである。

 副総裁谷口雅宣先生が、『理想世界』の「ネットワーク考」の中で「“大東亜戦争”で侵略行為を行ったのは日本」と書かれたのも、世界に大きな影響力を持つようになった経済大国日本が、さらに世界に受け入れられ尊敬される国として生まれ変わるには「大懺悔」が必要であるからである。さもなければ日本は再び大東亜戦争に突入したときのような過ちを犯し、人類は業の流転に翻弄されて永遠に世界平和は来ないからである。「大懺悔」のためにはまず「小我の否定」が必要だからである。
<つづく>


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