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Web誌友会 板/2
513
:
復興G
:2013/03/10(日) 07:41:22 ID:AB6RqYXc
>>511
:あさひ様。
>>実相はそうである。現象はない。しかし、目の前にある認知症の老人に対してどう対応すればよいのだろうか。
現象処理との問題、例えば人間の栄養摂取などもある程度現象処理的に考えねばならない。
実相独在とのバランス感覚が必要ですが、そのあたりの問題があります。
神の子人間が実は現実遊離の統合失調型になっていたのでは困ります。このあたりをお教えください。 <<
そう。
現実問題というのは、いろいろありますよね。
具体的なお答えにはならないと思いますが、「信仰生活の神示」を拝読して、考えてみましょう。
* * * * *
信仰生活の神示
信仰生活とは無用意の生活ではない。すべてに於て完全に用意されている生活である。
凡そ信仰生活ほど完全に用意されている生活はない。それは心が完全に用意されているだけではなく、物質にも完全に用意されている生活である。
物質は心の影であるから心が完全に用意されているとき物質も必要に応じて完全に与えられるのである。
家庭は一つの有機体であるから、良人が明日の用意をしないときには妻が明日の用意をするようになる。妻が明日の用意をしないときには良人が明日の用意をする。
右の手が利かなくなったら左の手が利くようになるのも同じことだ。
それは自然の代償作用でそう成るように計らいがあるのである。
それは有難い自然の計らいであるから、夫婦互いに感謝するが好い。
信仰生活とは明日の用意をしない生活だと思って、明日の用意をする配偶(つれあい)を信仰がないと思って夫婦が争っている家庭があれどもみんな誤った信仰である。
『明日のことを思い煩うな』と言う意味は『明日の用意をするな』と言うことではない。
信仰生活とは冬が来てから綿入を縫えと言うような生活ではない。秋から冬に要る綿入を縫うて置いても、それは『取越苦労』ではない。心が整えば秋から冬に要るものがちゃんと判って、自然法爾(ひとりで)に其の要る物を用意したくなるのである。
自然法爾と言うものは、外から自然に与えられることばかりではない。内から自然に催して来るこころの中にも自然法爾がある。
心が乱れて病気になったとき心が調えばその病気を治すに適当な食物が欲しくなるのも自然法爾である。
野の鳥も卵を産む前に自然に巣を造りたくなる。卵を産む前に巣を造っても小鳥は取越苦労をしているのではない。
『生長の家』の生活は物質に捉われない生活だと言っても、物質をきたながる生活ではない。金銭を穢いもののように思ってそれを捨てねば気が安まらぬような心も物質に捉われているのである。
物質は影であるから綺麗も穢いもない。卵を産む前に小鳥が巣を造りたくなるように自然に用意したくなる時には内からの囁きに導かれて好い、心が調えばその心の展開として用意すべきものは適当の時に用意したくなる。
すべて用意するものを信仰浅きものと思うな。用意しないで取越苦労をしている生活もあれば、取越苦労をしないで自然に用意している生活もある。
(昭和六年十二月五日神示)
* * * * *
ありがとうございます。
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