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Web誌友会 板/2

461復興G:2013/03/08(金) 16:08:17 ID:AB6RqYXc

さて、もう少しテキストの謹写を進めてまいりましょう。

テキスト 『生命の實相』 第2巻 第6章より<6>

     富の無限供給と循環

 考えてみますに、われわれは神の子であって無限の神の供給源から養われているのでありますから、われわれに与えられている能力にしましても、健康にしましても、各個人の富にしましても、それは決して有限のところから取ってくるのではないのであります。
 仮にわたしが能力を増して二人前三人前の仕事がひとりでできるようになったとしましても、わたしは無限の大生命からわたしの能力を汲んでくるのでありまして、そのために、それだけのほかの人の能力が減るというわけのものではありません。
 また仮にわたしが健康を二倍ほども増進しましたからといって、わたしはひとの健康を横どりしてくるのでもありません。わたしが健康すぎたからとて、ひとがそれだけ病気になるわけのものでもありません。
 これはちょっと考えるとなんでもないことでありますが、しかもそのなんでもないところに不思議な真理があるのであります。

 能力とか健康とかいうものが宇宙に一定の分量しかないものならば、わたしが能力や健康を増せば増すほどほかの人の能力や健康がそれだけ減るべきはずでありますが、別にそれが減らないのですから、宇宙にある能力や健康の分量は無限だと考えるほかはないのであります。
 そうするとわたしたちは能力や健康をどこからいただいてくるかと申しますと、無限の生命の大海からいただいてくると考えるより仕方がありません。
 そこでわたしたちは「無限」というものにつながっているということが解るのであります。

 ――ここが実に大切なところであります。こうしてわたしたちの生命力は自分だけのものでない、有限のものではない。無限の大生命につながっているということがわかってきますと、非常に自分の「生命」が結構な貴いものだと解ってくるのであります。
 「生長の家」で「人間はみんな神の子だ」とか「無量寿仏の子だ」とか申しますのはこんなところからもわかるのであります。

 能力や健康はこのようにいくら自分のものをふやしましても、人のものを減らしはしないのでありますが、これが富の問題になってきますと、そう簡単に片づけることができなくなります。
 世のなかには一人の者が富んで繁昌すればするほど残りの多勢の者が貧乏するようになっていると考えている人がかなりあるようです。こう考えている人がありますので、「富の分配の公平」という事が経済界に重大な問題となっているのであります。
 資本家がよけいとれば勤労者は貧乏する、勤労者がよけいとれば資本家の収入が減る、と互いに血まなこになって騒ぎまわっているしだいで、これでは実に窮屈な世の中だといわねばなりません。

 むろんこの窮屈な考え方は一つの生産会社などについていえば真理であります。それは会社からあがる利益などというものは有限なものであって、その有限なものをある人数に分配するということになりますと、一人がよけいとれば他の人たちに分配する分量が減るのは当り前だからであります。

 しかしこれは「富」というものをただ会社という有限な物に引っかかって考えるからこんな窮屈なことになるのでありまして、われわれの富は何も会社からばかりくるものだと考える必要はないのであります。
 富はわれわれが無限の供給――すなわち神――と離れない限り、どこからでも必要に応じてやってくるものであります。「生長の家」ではこう考えるのであります。

 今、わたしは「神と離れる」という言葉を使いましたが、神は宇宙のどこにでも満ちていられますので、本当に神と離れるということは実際上できないことではありますが、たとい神のみふところに抱かれていましても、そこに吸うに応じて無限にでてくる栄養の多いお乳が鼻先にありましても、それに気がつかないで、どこかほかに牛乳のびんでもないかとさがしている間は神と離れているのも同じであります。
<つづく>


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