したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

Web誌友会 板/2

453復興G:2013/03/08(金) 12:54:32 ID:AB6RqYXc

トキ様、a hope様
ありがとうございます。

皆さま、ありがとうございます。

第12回web誌友会を、今夜から次のように開催させていただきます。ご一緒に、深く、楽しく勉強させて頂きましょう。
よろしくお願いいたします。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

『第12回web誌友会』予告
≪日時≫
3月8日(金)21:30から
3月10日(日)23:30まで
≪テキスト≫
『生命の實相』第2巻第6章「経済問題の解決」(p.167〜211、45ページ分)

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

それでは、テキストの当該箇所を、次に謹写掲示させていただきます。

web誌友会テキスト
 『生命の實相』第2巻第6章より<1>

    第六章 経済問題の解決

     神学より観たる貧困

  神いい給いけるはわれらに象(かたど)りてわれらの像(かたち)のごとくにわれら人を造り、これに海の魚と空の鳥と家畜と全地と地に匍(は)うところのすべての昆虫(はうもの)を治めしめんと神その像のごとくに人を創造(つく)りたまえり……神いい給いけるは、視よわれ全地の面(おも)にある実蓏(たね)のなる諸(すべ)ての草蔬(くさ)と核(たね)ある果実(このみ)のなる諸ての樹とをなんじらに与う、これはなんじらの糧となるべし。(『創世記』)

 人間は本来貧しくあるようには造られていません。貧しくあるべく造られていると思うものは造り主の愛がどれほどのものか、その力がどれほどのものかを疑うものであります。

 人間ははじめ裸でつくられてエデンの楽園におかれました。彼は裸であるから無一物でした。しかしエデンの園には欲する物が一つとして手に入らないものはないのであります。だから人間は裸であるけれども本来無尽蔵の富の中に置かれていたのであります。それだのになぜ人間が、無限供給のエデンの楽園から追い出されて「一生のあいだ労苦してその食を得」なければならなくなったかといいますと、それは神が禁じ給いし、「善悪を知る樹」の果(み)を、蛇にだまされて食べたからであります。すると、聖書によりますと、「彼らの目ともに開けて彼らその裸なるを知り、すなわち無花果樹(いちじく)の葉をつづりて裳(きもの)を作れり」とあるのであります。

 人間は神の言いつけを守らなかった――すなわち神をうたがった、その時にすでに人間は本当の自己を見る目が曇ったのであります。自己の生命は神の生命と一体であるから、知恵の果実(このみ)などで不足を補わなくとも無限の英知を蔵しているのです。それだのに知恵の果実を食べてもっとよけいに賢くなろうとしました。この態度には人間が、自己に埋蔵(かく)されている無限の英知を信ずることができず、外からの物に頼ろうとした不信があらわれているのであります。この不信ほど人間本来無限の自己を小さく限ってしまうものはないのであります。

 われわれに通じている無限供給の配水管に堰(せき)をしてしまうものは常にこの不信であります。

 本来の人間は「知恵」においても「富」においても「生命」においても本来無尽蔵です。それは水脈が神に通うているがために、必要に応じて汲めども汲めども水のつきぬ井戸のようなものでありますのに、人間は神の言葉を信ぜず、自己の無尽蔵を信ぜず、外に物を求めたがために、その結果、自己の「裸身(はだか)」なることを見ることになったのであります。すなわち彼は無限供給の天園に置かれながら、自己に与えられたところの無限供給を見ず、自己が裸身であることすなわち自己が貧しき無一物であるということに気がついたのであります。

 「気がつく」ということ、すなわち心で認めるということ、これが心の法則からいえば事物を存在に入れるための第一原因となるのであって、われらが心で認めないものは何も存在に入ることはできないのであります。
<つづく>


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板