[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
1-
101-
201-
301-
401-
501-
601-
701-
801-
901-
1001-
1101-
1201-
1301-
1401-
1501-
1601-
1701-
1801-
1901-
2001-
2101-
2201-
2301-
2401-
2501-
2601-
2701-
2801-
2901-
3001-
3101-
3201-
3301-
3401-
3501-
3601-
3701-
3801-
3901-
4001-
4101-
4201-
4301-
4401-
4501-
4601-
4701-
4801-
4901-
5001-
5101-
5201-
5301-
5401-
5501-
5601-
5701-
5801-
5901-
6001-
6101-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
Web誌友会 板/2
4491
:
a hope
:2014/10/14(火) 20:59:12 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第14巻 p94 6行目〜
十月十八日の朝のことであった。
ラジオの聖典講義であまりにも有名になられた某僧侶さんの聖典講義に敬意を表して、
唯声だけでもよいと思ってきいてみたが、あとにも先にもそれがわたしのその某僧侶の講義をきいた唯一回でありましたが、
その僧侶のいわれるには「本当の自分というものがこんなに醜く穢れた自分であるということを悟るのが宗教である」
と声を激していわれたのにはわたしは思わずラジオのスイッチを切ってしまったのでありました。
わたしにいわせれば、本当の自分というものは真清浄真無垢である。
それは神と同体、阿弥陀仏と同体であるのであります。
それが一時醜く穢れたる相(すがた)に見えようとも、それは本当の相ではないのである。
それは「非存在(にせもの)の我」の仮の相である――そんな醜い相は、アルように見えているにしても、
それは本当にあるものではない――本当の自分が根本からそんなに醜く穢れたものであるならば、
本物がそんなに下らないものであるならば、われわれは未来永劫救われっこはないのであります。
本当の自分が真清浄真無垢なるものであればこそ、そこにこそわれわれの救いが成立するのであります。
わたしは断言いたしますが、本当の自分は醜く穢れたものであると知ることが宗教ではありません。
どんなに外見が醜く見えようとも本当の自分は『法華経』の言葉を藉(か)りていえば窮子(まずしきこ)ではない、
無限長者の跡継ぎである、言いかえれば、神の子であるということを知らせるのが宗教なのである。
その宗教とはわれらの哲学や学説ではない、「われ神の子」の自覚がただちに生活となり、そのままが家庭となることであります。
(つづく)
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板