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Web誌友会 板/2
3749
:
トキ
:2014/02/25(火) 20:09:24 ID:CiaHUWO.
「自己の内に生きる本当の神」
”本当の神”というものは、此処に見よ、彼処に見よというように肉眼でも霊眼でも見えるものでは
ない。見えるのは一個の差別的存在であるが、差別と差別が一緒に融け込む「愛」という連結のなか
に神はいますのである。”本当の神”というものは差別を絶した全体であるから、われわれの行いや心
持ちが差別的な境涯を脱したら、その程度に従って神がハッキリとあらわれるのである。そこに本当
の神が生きてくれば、もうわれわれは恐れる必要はない。どんな悪霊が祟ってやろうと思っても、自分
自身がその悟りの怨念の波長を受けるラジオの受信機にならないからもう恐れる必要がない。何かを
恐れるとその何かを受信しやすい精神波動を自分自身のなかに作ることになるから恐れないがよろしい。
いろいろの霊魂を祀ってもあながち悪いことではない。ただ、それは第二義の信仰であって、本当の
信仰の対象とすべきものではない。こちらのやり方によって、怒ったり、罰をあてたり、復讐したりす
るような個別霊を信仰の対象にしていると、相手は肉眼で見えない「霊魂」のことであり、こちらから
こうして祀っているのが気に入っているのか気に入っていないのかわからぬから、常に仏罰又は神罰を
受けるかと思って戦々恐々としていなければならなぬ。それでは信仰というものが心の平和の礎とはな
らないで、却って心の不安の原因になってしまうのである。”本当の神”を信仰すれば恐怖がない。その
境涯を仏教では無畏の境涯と称している。”本当の神”は自己の内に宿る”神の愛”であるから、それは
一切のものを拝み、一切のものと和解することになるから天下無敵となるのである。
この事をキリスト教の聖書には、「完き愛には恐怖なし」と示されている。
「人生を支配する先祖供養』 谷口雅春先生著、51〜52Pより謹写
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