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3641志恩:2014/02/02(日) 20:28:54 ID:.QY5jUA6
この霊界篇で、雅春先生は、大本教にいらしたときに、
共に心霊学を学んでいらした浅野和三郎のことについて、5頁から触れられておられます。

浅野和三郎訳「死後の世界」(オックスフオード大卒、ワード氏著)の中からも多く引用されてます。

雅春先生と共に学ばれていらした浅野和三郎が、いいかげんな人物でないことを、知っていただくために、
まず、浅野和三郎のことを、以下、Wikipediaより ご紹介させて頂きます。

浅野先生は、霊媒の中でも、ほんのひとつまみしかいないという、本物中の本物である素晴らしい先生でした。

死後の世界を、科学的に研究されて、具体的に人類に示して下さった、日本人としては最初のお方だったそうです

浅野和三郎ー(生家は代々、医者を生業にしていた)

1896年(明治29年)東京大学に入学、時を同じく小泉八雲(パトリック・ラフカディオ・ハーン)が英文学担当教師として赴任し、
          教えを受ける。在学中に機関誌『帝国文学』に処女作「吹雪」を発表。浅野馮虚の筆名で、

           その後短編小説等を続々発表し文才を発揮。さらに、英文学科に在籍しながら、英米文学の翻訳にも手を広げ、
         アーヴィングの『スケッチブック』、ディケンズの『クリスマスカロル』、エドワーズの『奇々怪々』を出版した。
          このような経歴が、心霊研究への下地となっている。

1899年(明治32年)に東京大学英文学科を卒業。海軍に請われて、横須賀にある海軍機関学校の英語教官に赴任する。

1915年(大正4年)の春、三男の三郎が原因不明の熱病になり、多数の医者に見せても回復せず半年を過ぎていたが、
         三峰山という女行者の言葉通りに快癒した事から、心霊研究に傾倒し、

1916年(大正5年)海軍機関学校を退官し、当時もっとも実践的な心霊研究をしていた大本に入信。
         教団内で有力な信者となり、論客として活躍するも、

1921年(大正10年)の第一次大本事件による大弾圧の後は教団を離れ、

1923年(大正12年)3月、🌻「心霊科学研究会」を創設。

         伴に大本を離れた人物として宗教右派に属する政治的新興宗教🌸生長の家創始者谷口雅春氏が居る。

1928年(昭和3年)、ロンドンで開かれた第三回国際スピリチュアリスト会議(世界神霊大会)に出席し、
          グロートリアン・ホールにて「近代日本における神霊主義」の演題を英語で講演する。

          さらにロンドンで霊媒や降霊会を訪ね、パリ、ボストン等を歴訪し、心霊関連の文献を多数持ち帰る。
          この実績をもとに、日本国内での心霊主義(スピリチュアリズム)の啓蒙活動によって、

1929年(昭和4年)5月に名古屋に「中京心霊協会」が、同年7月に大阪に「大阪心霊科学協会」が、そして
         12月に東京に「東京心霊科学協会」が相次いで設立されて心霊研究の実行機関が各地に設置された[。

🌸「東京心霊科学協会」では、翌1930年(昭和5年)1月15日に設立記念の新年総会を開催して、1月17日に新事務所開きを行って、活動を展開し始めた
           妻の多慶子は三郎の病気が治った翌年から、霊的な能力を見せ始め、

1929年(昭和4年)、次男の新樹の死をきっかけに霊言(トランス・トーク)を行うようになり、
         『新樹の通信』、『小桜姫物語』(ともに霊界見聞録等の内容)を収録し出版した。


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