[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
1-
101-
201-
301-
401-
501-
601-
701-
801-
901-
1001-
1101-
1201-
1301-
1401-
1501-
1601-
1701-
1801-
1901-
2001-
2101-
2201-
2301-
2401-
2501-
2601-
2701-
2801-
2901-
3001-
3101-
3201-
3301-
3401-
3501-
3601-
3701-
3801-
3901-
4001-
4101-
4201-
4301-
4401-
4501-
4601-
4701-
4801-
4901-
5001-
5101-
5201-
5301-
5401-
5501-
5601-
5701-
5801-
5901-
6001-
6101-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
Web誌友会 板/2
344
:
初心者
:2013/02/20(水) 16:26:12 ID:4YcI.wfQ
復興Gさま
言語が牢獄であるというのは比喩でもなんでもなく、言語の向こう側にはなにも
ないのではないかということをいっています(つまり、言語はいかなる意味も事物
も指し示してはいないとも考えられるということです)。
言語をもちいることで生活し、言語をもちいることでしか思考できないのが人間
であるとして、それなのに言語はなにも指し示していないとすれば、人間はただ
言語のなかでのみ生活し、言語のなかでのみ思考していることになります。
言語のなかでのみ生きる人間は、言語の本性である二項対立のなかでのみ生きる
しかありません。二項対立のなかでしか生きられない人間は、言語によって生み出
された二項対立でしかなく、その意味で幻想であり虚構でしかない「真説と虚説」
の対立関係を生みだし、それを実在とみなすようになります。
「われこそは真説であり、対立するものはすべて虚説である」と言い争ってみた
ところで、それは言語の世界のゲームでしかないということです。
「永遠神性」、「唯仏与仏」、「久遠実在」といってみたところで、これらの言葉に
期待できるのは、復興Gさまもよくご存じの「言葉の象徴化作用」だけであるのかも
しれません。
言葉はなにも言い当てていない。これはたしかなことだと考えます。であればなに
ができるのでしょうか。できるのは「言葉はなにも言い当てていない」と言い張る
ことだけでしょう(これがわたしのやっていることです)。それもいやなら、わたし
様がいっておられるように「沈黙するしかない」ということになるのではないで
しょうか。
どうしても沈黙できないのであれば、「これが真理といっても間違いないのでは
ないか」といった物言いで謙虚に真理を語るにとどめる、というのが、言語の世界
でしか生きられない己を自覚したものの務めではないかと考えます。間違っても
「絶対的真理を直観把握した」なとどとは言いださないのが、言語の世界でしか
生きられない己を自覚した賢明なる覚者の作法ではないかとも考えます。
さきほどは、「救い」の表現にひきずられる形で「牢獄からの解放」とうっかり書い
てしまいましたが、総裁がいっておられるのは、「言語が牢獄であることをまずは
自覚しましょう」といったことだと考えたほうがいいような気がしてきました(ただ
しこれは、いちぶの情報から得た推測でしかありません)。
いずれにしても、人間が言葉をもちいるかぎり牢獄からの解放はないと考えた
ほうがよさそうです。牢獄の自覚なくして構造問題の解消なし、ということは
いっておきたいとおもいます。
>今、教団・総裁と、“本流”を名乗る別派とは、お互いに不倶戴天の敵のように憎みいがみ合っているように思われますが、お互い「毒を薬にする」ような、大局的な見方はできないものかと、考えてしまいます。
そのためにも毒の正体を見極めることがまずは必要なことだと考えます。とくに
書かれた言葉は、「毒にもなれば薬にもなる」という意味でパルマコンともみなさ
れることがあります。書かれた言葉を絶対化すれば、それは毒にしかなりえない
と考えます。
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板