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Web誌友会 板/2

338復興G:2013/02/20(水) 13:58:59 ID:AB6RqYXc

さて、「生長の家本流」を名乗ったり、「谷口雅春先生を学ぶ」と称する界に属している人の中に、「虚説とは何か」と言えば、
≪それは谷口雅宣先生が、谷口雅春先生の「教え」と違うことを説いているから、それを“虚説”と言っているだけのこと。だから、谷口雅宣先生の「教え」とは「和解」できないのだ≫
とおっしゃる方があるようです。が、これでは、谷口雅春先生の教えに背く、生長の家倫理学において最も重い罪とされている“偶像崇拝”になるのではないかと、私は思います。すなわち――『生命の實相』第13巻「倫理篇 上」第2章より、その典拠を以下に謹写させていただきます。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

<『生命の實相』第13巻 倫理篇上 第2章「第一の神性隠蔽」より(p.81〜)>

   肉体をもって神性に代える現代キリスト教徒の迷誤

 げに、霊なる「神の子」を肉体と見るところの第一の神性隠蔽が「アダムの原罪」なのでありますが、現代の滔々(とうとう)たるキリスト教徒はこの「アダムの原罪」を犯しているのであります。

 キリストを肉体イエスにのみ見いだして、「アブラハムの生まれぬ前(さき)よりわれは在るなり」とイエス自身いわれた「永遠の神性」を見ることができず、「肉体イエス」を通さなければ人間は救われないなどと、「肉体」をもって「神性」に代え、「迷い」をもって「実相」に代えているキリスト教徒のいかに多いことでありましょうぞ。

 「アブラハムの生まれぬ前より、われは在るなり」とイエス自身のいわれた「永遠の神性」をもってわれらの救いの本尊だとするとき、その「永遠の神性」は誰にも皆自己の内面に宿っているのでありますから、いなその「永遠の神性」のみが本当の存在であり「本物の自分」なのでありますから、「救い」はすでに自己の内に備わっているのでありますのに、外にあるキリスト――「肉体イエス」を通じて初めて人間は救われると信ずるなどは誠に愚かしき考えであります。

 キリスト教では形あるものを崇拝することを偶像崇拝といって、非常に軽蔑して忌み嫌うのでありますが、「永遠の神性」を礼拝の対象にせず、二千年前ユダヤに生まれた肉体イエスを通さねば救われないなどと、肉体を礼拝の対象にしているなどは、みずから忌み嫌う偶像崇拝に陥っていることになるのであります。

 こうして「永遠神性」に背を向け顔をそむけて、ある特定の肉体を崇拝の的にすることは神の実相を見ざるもの、本当の神を「自己の迷い」をもって包み隠せるはなはだしき罪なのであります。

   宗教争いは偶像崇拝よリ起こる

 物質的な形あるものを礼拝の的にするようになりますと、物質的な形あるものは有限でありますから、ここまでは自分の領分であって、お前の領分でないというような争いができてくるのであります。

 人間を和合させる働きをせねばならぬ宗教でさえも、肉体キリストという物質的顕現に捉えられていましては、顕現せられましたそれぞれの応身または報身は異なりますから、互いに信者争い、領分争いをしなければならぬようになってくるのは当然であります。
 その宗教が偶像崇拝教である程度は他教を排斥する程度でわかるのであります。

 つまり、すべての争いの第一の萌芽(めばえ)は、物質的な形あるものを崇拝すること――すなわち偶像崇拝――よりくるのであります。

 すなわち「すべての罪のうち最も重きものはなんであるか」と問う人がありますならば、「偶像崇拝をもってその第一とす」と「生長の家倫理学」は答えるのであります。
<つづく>


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