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Web誌友会 板/2

3149復興G:2013/10/11(金) 11:30:12 ID:AB6RqYXc

<谷口雅春先生 『あなたは自分で治せる』 の第十三章・『真佛教の把握』 より謹写 収載
     『般若心経』 講義 つづき>

 それの先ず第一が 「布施(ふせ)」 ですね。布施というと 「施し」 です。お寺に何か献金するとか、坊さんに供養をするとか、貧しき人に物を与えるとか、このように供養するのが布施であります。

 その次には持戒(じかい)です。持戒というのは 「戒律を保(たも)つ」 と書かれておって、正しき行いをする事です。殺さないとか、盗まないとか、嘘をつかないとか、夫婦以外の異性と性の交通をしないとか、欲張らないとか、色々道徳上の禁制がありますが、そういうようないましめを保つのを持戒と言います。

 その次には 「忍辱(にんにく)」 といって――「忍(にん)」 は 「しのぶ」、「辱(にく)」 は 「はずかしめ」 という字です。人の辱(はずか)しめに腹を立てないで、忍ぶのであります。

 世間には 何もこちらが悪い事をしないのに悪口を言うような人がある。それをきくと、つい腹が立つ、「生長の家は人を救っているのに、却(かえ)って悪口をぬかしやがる」 などと思うと、つい腹が立つものですね。しかしそんな事に腹が立つのではいけないのです。「忍辱(にんにく)」 といって腹を立てずに屈辱を忍ぶというのが彼岸に達する一つの修行なのです。その修行を卒業するまでは其の人の周囲にそんな修行がでて来るのです。彼岸に達するというのは、實相の浄土なる状態に我々が達することを言うのです。

 我々が善いことをして居って、ほめられたり、表彰されたりしたら、嬉しいように思う人があるけれども、しかしそれは既に報いを受けたのですから、善業(ぜんごう)の蓄積にはならないのです。行動のエネルギーというものは既に形に顕れたら消えてしまうのは、物理学上のエネルギーが「仕事」という形に顕れたら消えてしまうと同じです。

 あの機関車が石炭をもやして汽車を走らす場合、石炭の燃焼エネルギーが、「汽車を動かすという仕事」 という形に現れたならば、そのエネルギーは消えてしまうのと同じであります。私たちが善業(ぜんごう)を行ってそれが賞(ほ)められるという形にあらわれないまでは、その善業は潜在エネルギーとして天の倉にたくわえられているのです。しかし善き事をして何か表彰されたり、賃銀をもらったりして形にあらわれたら、それだけ消えてしまうのです。

 そうしたら、ほめられないでいて、かくれていい事をしている方が、天の倉に貯えられたところの徳という事になるのであります。更に善い事をしながら悪口を言われたならば、天の倉に貯えられたところの富が、また更に利子がついたという事になります。

 だから、辱(はずか)しめを受けた時には 「ああ、有難うございます。天の倉に貯えられたところの陰徳に利子がつきました。有難うございます」 と感謝すれば好(よ)いのです。そしてほめられた時には、「困ったなあ、せっかく天の倉に貯えておいたのに、ちゃんと払いもどしがあって、貯えられた富が消えた」 と思って更に人に隠れて善業を積むようにすれば好いのですね。
 <謹写 終わり>

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