[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
1-
101-
201-
301-
401-
501-
601-
701-
801-
901-
1001-
1101-
1201-
1301-
1401-
1501-
1601-
1701-
1801-
1901-
2001-
2101-
2201-
2301-
2401-
2501-
2601-
2701-
2801-
2901-
3001-
3101-
3201-
3301-
3401-
3501-
3601-
3701-
3801-
3901-
4001-
4101-
4201-
4301-
4401-
4501-
4601-
4701-
4801-
4901-
5001-
5101-
5201-
5301-
5401-
5501-
5601-
5701-
5801-
5901-
6001-
6101-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
Web誌友会 板/2
3148
:
復興G
:2013/10/11(金) 11:13:17 ID:AB6RqYXc
>>3144
:ユタカさま、ありがとうございます。
a hopeさまからご質問もありましたが、「忍辱(にんにく)」 というのは、お釈迦さんの教えで 「六波羅蜜(ろくはらみつ)」 の一つですね。
それについては、谷口雅春先生が 「『般若心経』講義」 (『あなたは自分で治せる』 の第13章および 『真佛教の把握』 に収録されている) に、詳しくお説きくださっています。それを謹写して、再確認の勉強をさせて頂きたいと思います。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
谷口雅春先生 『あなたは自分で治せる』 の第十三章・『真佛教の把握』 より謹写 収載
『般若心経』 講義
講義のはじめに
この経は
「佛説般若波羅蜜多心経(ぶっせつはんにゃはらみったしんぎょう)・観自在菩薩(かんじざいぼさつ) 行深般若波羅蜜多時(ぎょうじんはんにゃはらみったじ) 照見五蘊皆空(しょうけんごうんかいくう)……」
という聖句ではじまっております。この 『般若心経(はんにゃしんぎょう)』 という御経は佛教ではどんな宗派でも皆排斥しないで採用しているところの御経であります。
生長の家でもこの 『般若心経』 の神髄を實践的に説いているのでありまして、観自在菩薩というのは観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)のことであります。
観世音菩薩というと、其の佛像を御覧になって、何かそういう荘厳な佛像としてそこに現れているのが観世音菩薩だと、こう思っている人もありますけれども、これは御経の表面の意義でありまして、御経の内密の意義――密義ではありません。
佛教では顕教(けんきょう)と言って経典の表面に顕れた意義を説く教えと、密教といいまして、御経の内部にひそむ秘密の意義を説く教えとがあるのであります。秘密というのは内緒にしてかくしてあるという意味ではないのでありまして、表面に現れていないところの奥深いところの内部的な意義を知り、それを實践する――これが密教であります。
この観世音菩薩というのも、内部的の意義即ち密教的にみますと、これはそういう佛像ではないのであって、皆さん御自身が観世音菩薩なんであります。みんな観音様なんですね。
観世音というのは世音(せおん)即ち世の中の音を観ずるのです。「世音」というと人々の心の響きです。人々の心の響きを「観ずる」というのは、肉眼でみるのじゃなくて、心の眼でみるのですね。心の眼で人々の心を観じて、その心の姿のままの姿に顕(あらわ)れる菩薩(大士<だいし>)というのが、観世音菩薩であります。
この菩薩は 『観音経(かんのんぎょう)』 にあります通り、相手の心の姿にしたがって三十三身に身を変ずるというわけで、どんな姿にも心のままに顕れるのであります。必ずしも三十三種の身には決っていないのであって、ありとあらゆるどんな姿にでも顕れて、衆生(しゅじょう)を済度(さいど)なさる、これが観世音菩薩であります。
衆生の中には 「自分自身」 も含まれていまして、自分の前にあらわれる人々の姿を自分の心の姿だと観ずると自分が済度されるのであります。皆さんが観世音菩薩で観察自在であって、なんでも観察しようと思えば自在に観察することが出来るでしょう。自己観察をすることが必要です。鏡に向かって自分が撲(なぐ)る姿をしたら鏡の中の人物は自分を撲ってくるでしょう。其のように全ての人物があらわれる、ちゃんと観世音菩薩だ。自分の撲る心がこっちへ向かって現れる。そうでしょう。その代り相手の心の通りにこちらも先方には顕れて見える、みんな観世音菩薩である。
それによって、“ああなるほど、私の心というものはこういう心をしておったんだ” という事がわかるのであります。観察自在であってどんな姿にでも自由自在に顕れる、観音様が皆さんであるわけであります。その観自在菩薩が 「行深般若波羅蜜多時(ぎょうじんはんにゃはらみったじ)」 というのは訓読(くんよ)みすれば、「深般若波羅蜜多(じんはんにゃはらみった)を行じ給える時には」 と読むのですが、「深(じん)」 は深遠(しんえん)きわまりなき、「意義深甚(じんじん)の」 というような形容で、「波羅蜜多(はらみった)」 というのは、「到彼岸(とうひがん)」 と訳されておって、六波羅蜜(ろくはらみつ)と言って、彼岸(ひがん)即ち 「實相世界」 に到るためには六つの行があるのであります。
<つづく>
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板